戻ってこない日々
わたしの部屋がノックされた。わたしは手にしていた鍵を引き出しに入れた。これは真一から渡れた小屋の鍵だ。いつでも使っていいと渡してくれたのだ。あの小屋は真一が一人で使っているようなものらしい。
わたしが返事をすると、真一がコーヒーを持って入ってきた。
彼はわたしの机の上にカップを置いた。
彼はわたしが一人で気持ちを溜め込んでいないか不安なのだろう。三日に一回は顔を出していた。
おばあちゃんもセンター試験の日以来、真一にすっかり心を許したようで、彼の訪問を心から歓迎していた。今や、真一の来ると思われている日にはお菓子を買ってくる始末だ。
「ありがとう」
真一は笑顔を浮かべると部屋から出て行こうとする。
わたしはそんな真一を呼び止め、机の上に置いていた願書を真一に差し出した。
「わたし、北海道の大学を受けることにした」
おばあちゃんには昨日、伝えておいた。彼女は笑顔で構わないと言ってくれた。
これが今のわたしにできる唯一の選択肢だ。
真一はぽんとわたしの頭を叩いた。
「寒いけど、平気か?」
「寒いのは苦手だけど暖房器具あるし。きっと家のつくりも違うから大丈夫」
わたしの言葉に真一は苦笑いを浮かべていた。
「頼りないな。僕が大学生になったら遊びに行ってやるから、良さそうなところがあったらリストアップしておいて」
わたしは笑顔を浮かべた。
真一の突然彼の表情が真顔になった。
「あいつから連絡来た?」
わたしは真一の言葉に首を横に振った。
「あの人の心の中で答えは出ていると想う。わたしもその気持ち分からないでもないから。それでいいと思う」
次に三島さんに会うのは恐らく卒業式だろう。そのときまでに心の整理をすませておかなければならない。わたしは自分自身にそう言い聞かせた。きっと彼女は由紀と一緒にいることを選んだのだろう。自分の夢よりも。
わたしは心の奥が疼くのを感じながら、そっと唇を噛んだ。
大学の入学試験は問題なく終了した。あとは大学入試の結果を待つだけだった。
わたしは家を出ると、天を仰いだ。目の前には寒空が広がっていた。もうすぐ暖かい春が訪れようとするとは信じがたいほど、辺りは寒かった。
わたしは家の前に立っている人影を見て、目を細めた。
そこには真一の姿があった。
今日は卒業式の練習で、出校日となっていた。登校日に学校に行ってなかったため、久しぶりの学校となる。真一にそのことを伝えると、彼はわたしに途中まで一緒に行こうと言い出したのだ。
三島さんも学校に行ってないらしく、わたしは三島さんと会っていなかった。
「行こうか」
真一は少し歩き、足を止めた。
「あいつ、卒業式にも出ないと言っていたよ」
「どうして?」
正直意外だった。卒業式には来ると思っていたためだ。
真一は言いにくそうにわたしから目を逸らした。
「もっと早くほのかにも言うべきだったのだろうけど、由紀のこと、学校で噂になっている。将をほのかに取られたから由紀が自殺未遂をしたって。だからだと思う。だから、ほのかも学校で何か言われるかもしれない。行かないほうがいいかもしれない」
だから、彼は一緒に行こうと言い出したのだろう。
わたしはある意味納得してしまった。
「大丈夫。この半年間で結構鍛えられた。真一は大丈夫なの? わたしと違って毎日学校に行かないといけないのに」
「僕は平気。家のこととかで陰口は慣れているし。いずれ知ると思うから言っておくけど、僕がほのかに振られたことにもなっているみたいだから。その辺頭に入れておいたほうがいいかも」
わたしは真一の言葉に耳を疑った。
「そうなの?」
真一は苦笑いを浮かべていた。
「双子で揃って告白して振られたってなっているから。別にどうでもいいから放置しておいたのだけど。下手に否定すると話が大きくなるだけだと思って。でもそれが逆効果だったみたい。ほのかが親父の子という噂はまだ流れていないみたいだから平気だとは思うけど」
自分の家のことでも大変なのに人のことまで気を遣うのは真一らしいが、気がかりでもあった。
「ごめんね」
「謝るなよ。ほのかのせいではないだろう?」
真一は明るい表情で笑っていた。
もしわたしが真一や由紀と腹違いの兄弟だという噂が流れたらどうなるのだろう。
少なくとも真一は今よりももっと嫌な思いをすることになるだろう。
この町にきたときは考えたこともなかった。
あの日、おばあちゃんと一緒に住みたいと思った選択は間違っていたのかもしれない。そう思わずにはいられなかった。
教室の中に入ると周囲から興味本位の視線を浴びせられた。わたしは素知らぬ顔で自分の席に座った。だが、すぐにわたしの肩が捕まれる。振り向くとそこには西岡さんが立っていた。
彼女はわたしを見ると笑みを浮かべる。
「久しぶり」
わたしは嫌な予感をひしひしと感じながら、彼女の言葉に曖昧に頷いた。
「あなたのお父さんが高宮くんのお父さんって話は本当なの?」
わたしはその言葉に息を呑んだ。騒がしかった教室があっという間に静かになった。わたしは目を閉じると息を吸った。
「やっぱり本当なのね。あの人があなたを好きになるなんておかしいと思ったのよ」
「そんなのただのデマよ」
まくしたてるようにして口にする彼女に、出来る限り落ち着いた口調で言い放った。そのことを他の人に知られてはいけない。
わたしたちの抱えている秘密の中で一番大きなものだった。
「でもわたしのお母さんが知り合いに聞いたらしいけど、あなたのお母さんと真一くんのお父さんが付き合っていて、あなたのお母さんはすがたをくらませた。ちょうど十八年前に。あなたの誕生日からなら、一月か二月には妊娠していたのよね」
西岡は得意げな顔で言った。彼女はただ、真一がわたしを好きだという噂を否定したいだけなのだろう。
「違う。それに高宮くんがわたしに告白したというのもデマ。分かった?」
いらだちを隠せないわたしの言葉に西岡は言葉を詰まらせた。彼女は鋭い視線をわたしに向けた。
「それなら、あなたのお母さんはやっぱり二股をかけていたわけだ」
わたしの心の中で何かが燃え上がるのを感じた。
二股なんてかけていない。だが、それを否定したらわたしが真一と異母兄弟ということを知られてしまうだろう。
だからわたしは否定することが出来なかった。
「あなたたちには関係ないでしょう? これ以上人のことを詮索するのは止めたら?」
「どうして? 本当のことでしょう。あなたのお母さんが遊んでいたって。もしかしてお父さんが誰か分からないとか?」
西岡さんはくすりと笑った。
わたしは思わずこぶしを握り締めた。
もうこれ以上こんな話に関わりたくなかったし、巻き込まれたくなかった。
「最低」
わたしは鞄を手に教室を飛び出した。あまり馴染むことが出来なかった学校だったが、それでもあまり休まずにやって来たのは三島さんが傍に居てくれたからだったと改めて実感する。
学校の外に出て、人気のない場所まで来た時、目元に熱いものがこみ上げてきた。
「こんな町に来なきゃよかった」
わたしは唇を噛みしめていた。
家に帰ると、祖母は驚いたように目を見張った。
出て行って一時間も立たないうちに帰ってきたのだから当然だ。
「やっぱり学校は行かないことにした」
彼女は小さく声を漏らす。
「行かなくていいんだよ。行きたくないのなら」
わたしは彼女の優しい気持ちを感じ取り、唇を噛むと、頷いた。
そのまま部屋に戻ると、声を漏らさないようにしてただ泣いていたのだ。
うとうととしていたわたしは部屋の扉がノックされる音で目が覚ました。わたしは慌てて体を起こし、扉を開けた。そこには、制服姿の真一がいた。
彼はわたしを見ると、俯いた。
「また、学校で言われたみたいだな。ほのかのクラスの子に聞いた」
「平気だよ。部屋に入って」
わたしは真一に告げた。廊下で話して階下にいる祖母には聞かせたくなかった。
彼女が察していることは分かっていても。
真一は頷くとわたしの部屋に入ってきた。
時計を見ると十一時を回ったところだった。
帰宅するには早すぎる時間だ。
「サボっていいの?」
「いいの。それどころじゃないよ。あの女にはもう関わらないでほしいといった。僕に恋愛感情を持っているみたいだけど、ああいうのが一番困る。勝手に逆恨みして大事な人を傷つけた」
真一の言った大事な人の中にわたしは含まれているのだろうか。
「ほのかももちろん入っているよ」
彼はそう言うと、少しだけ笑った。
だが、彼の表情が一気に暗くなった。
「父親と母親が結婚しなければ、俺と由紀が生まれてこなかったら、こんなことにならなかったのに」
「そんなこと言わないで。わたしは真一が産まれてきてくれて良かったと思っているよ。すごく良い子だもん。真一と友達になれてよかった」
「そういう言い方、子供扱いされているみたい」
真一は頬を膨らませた。
「嫌なら謝る」
「嫌じゃないけど、でも正直、ほのかとは姉弟としてではなく、赤の他人として会いたかった。そしたら誰に気を遣うわけでもなく、もっといろんなこと話せたのに」
「そうだね」
わたしは頭をかいた。
「本当はもう一つ言いたいことがあったんだ」
真一は唇をそっと噛んだ。彼は少し前を置いて、唇を再び開いた。
「由紀、転校することになった。母親も一緒に引越しする。僕と父親は残る」
「残って大丈夫なの?」
「僕はね。でも」
彼はそこで口ごもった。
由紀は恐らく耐えられないと言いたかったのだろう。
だが、彼の複雑そうな表情はもう一つ事実を告げている気がした。
わたしは心の中に思い浮かんだことを彼に問いかけた。
「三島くんはついていくの?」
わたしの言葉に真一は首を横に振った。
「分からない。でもあいつの性格を考えると多分そうする」
「そっか」
わたしにはそれしか言えなかった。
三島さんは由紀と一緒にこの町を離れるだろう。由紀が落ち着くまで。そして彼女が望めば結婚をするかもしれない。
「教えてくれてありがとう」
真一は複雑そうな表情を浮かべて微笑んでいた。
わたしは結局、卒業式には出席しないことにした。幸い、学校に荷物はもう置いていない。祖母にそのことを伝えると、祖母は「分かった」とだけ告げていた。
卒業式の日は新しい門出を祝うかのような、綺麗な澄んだ空だった。
真一から、三島さんも卒業式に出ないと聞いた。
何もなければ高校の卒業式に出たかった。彼と一緒に。
大学への期待に胸を高鳴らせながら。
わたしの瞳からは涙が溢れ、わたしの視界を次第にぼかしていった。




