夢の途切れた日
わたしは何度も深呼吸をして、辺りを見渡した。試験官らしき人たちが入ってくると、ざわめきが一掃された。わたしは空白になった席を見て、短くため息を吐いた。そこは三島さんの席だったのだ。
あれから三島さんに会うことも、連絡もなかった。わたしも彼に連絡が取れないでいた。
今日だけは来るだろうと思っていたが、甘かったようだ。彼は今、何を思って過ごしているのだろう。
今日はセンター試験の日だ。もちろん、三島さんも出願していた。センターは高校単位で出願するため、誰が来ていないかはすぐにわかった。
「やっぱり三島君、来ないんだね」
後方の席でそんなやり取りが聞こえた。
「問題用紙を配ります。筆記用具以外は鞄の中にしまってください」
つながりのない試験官の言葉に、そんな囁きは飲み込まれた。
由紀は新学期が始まってから学校に来ていない。そのことがほとんど学校に来ない三年にも伝わっていた。そして、皆、三島さんと何かあったのだろうと噂をしていたのだ。
問題用紙が欠席している三島さんの席にも配られた。わたしは彼が来てくれることを願っていたが、その願いが届くことなく、試験開始の合図が響き渡った。
わたしはそっと唇を噛みしめ、問題用紙に目線を落とした。
初日最後の物理の試験を終えると、教室から出た。外は強い風が木々を揺らしていた。その中で、よく見知った生徒を見かけた。わたしは思わず彼に駆け寄っていた。高校二年の彼がこんな場所にいるのは場違いとしか思えなかった。
「どうしたの?」
「迎えに来た」
真一はあっけらかんとした笑みを浮かべた。
良く考えれば彼に会うのもあの日以来だった。わたしのことを心配して迎えに来てくれたのだろう。そんな彼の実直な想いが伝わってきて嬉しかった。
「ありがとう」
安心したのか、思わず足元がふらついた。そんなわたしの肩を真一が支えてくれた。
「体調悪そうだな。あれからあまり眠れなかった?」
わたしは嘘をついても無駄だと思い、素直に頷いた。
真一はわたしの顔を覗き込んで溜め息を吐いた。
「あいつだって今日のためにあんなに勉強してきたのに。由紀のわがままのせいで、受験自体をしないと言っていた」
わたしはそっと唇を噛んだ。
それが彼の下した決断だったのだろう。
「わたしは解けたから気にしないで。三島くんだって彼なりの考えがあったんだと思う。由紀さん容態はどう?」
「知らない。もう由紀のわがままには付き合いたくない」
真一はわたしから目を背けた。彼は必要以上にわたしたちのことを考え、心を痛めているのかもしれない。
「大丈夫だから。帰ろうか」
わたしは真一の背中を軽く押し、歩き出そうとした。だが、地面がまるで弾力性のあるゴムのように上手く着地することが出来なかった。
頭に何かで刺されたかのような激しい痛みが襲った。わたしは思わずその場にかがみこんだ。
「大丈夫か?」
真一の言葉にわたしは何度も頷く。だが、体が言うことを利かずきちんと頷けたのかさえ分からない。わたしの意識は次第に遠のいていった。
目を覚ますと辺りを見渡した。
ここはわたしのへやだ。
服装は学校の制服のまま。
さっきまでの記憶を手繰り寄せ、試験会場で倒れたことを思い出したのだ。
部屋にある時計は六時を刺していた。外は薄暗く、朝の六時なのか夕方の六時なのか判別がつかなかった。
私は重い体を起こすと、階段を降り、リビングに向かった。リビングでわたしはテーブルの上にうつ伏せになっている真一の姿を見つけた。
わたしが真一を起こそうとしたとき、祖母の声が聞こえてきた。
「寝かせといてあげなさい。昨日ほのかを連れて帰ってきてくれたのよ。ほのかが目を覚ますまで傍に居させて欲しいというからリビングに居てもらったけど。遅くまで起きていたみたいだから疲れているのよ」
真一はわたしをあそこから連れて帰って来てくれたのだろうか。
「熱はどう? 昨日は随分高熱を出していたようだけど。今日も試験だけど、どうする?」
わたしは祖母の言葉に頷いた。
「大丈夫だと思うけど、一応熱を測ってみるよ」
わたしは真一が体温計を握り締めているのに気が付いた。真一を起こさないようにして彼の手から体温計を抜き取った。
体温は三十七度と少し高めだったが、動けないほどではなかった。
それにこれくらいで休むわけにはいかなかった。
わたしは準備を整えると、マスクをして、寝ている真一をそのままにして家を出た。
試験を終えて出てくると、真一が昨日と同じ場所に立っていた。服が私服に変わってた。彼はわたしと目が合うと駆け寄ってきた。
「身体は大丈夫?」
わたしは真一の言葉に頷く。真一は安心したのか表情を綻ばせた。
「試験はどうだった?」
「何とか解けたと思う」
わたしの言葉に真一は笑みを浮かべていた。だが、どことなく疲れた印象を受けるのは夜通しわたしを看病してくれたからだろうか。
「家まで送っていくよ」
「家には帰った?」
「一応ね」
わたしたちは駅に向かうことにした。何人かが試験を終わらせ駅に向かっていたが、見知った顔はいなかった。
歩道の脇にある木々は枯れ、時折拭く強い風に枝を震わせ寒さに耐えているように見えた。
わたしが駅に着くと、真一は切符をわたしに手渡す。前もって準備をしておいてくれたのだろう。
切符の販売所は二箇所あったが、二箇所とも人が十人ほど並んでいた。
改札口を通ると、駅名の書かれたパネルを見ながら乗るホームを探し出した。わたしたちは駅に停まっていた電車の一番後方の車両に乗り込んだ。
電車の中は暖房が効いており、感覚のなくなった手にじんわりと温もりが伝わってきた。
「昨日ごめんね。倒れてしまって。連れて帰ってきてくれたっておばあちゃんから聞いた」
「でも大事に至らなくて良かったよ。起きたらほのかが居なくて驚いたよ。昼過ぎに起きたのは小学生のとき以来かな」
真一はわたしを見ると、言葉を止めた。
電車の扉が閉まり、一度大きく後方に揺れると電車が動き出した。
「本当は将を呼ぼうと思ったけど、呼べなかった」
真一は申し訳なさそうに微笑んだ。
わたしは真一の言葉に頷いた。
「それでよかったのよ。センターにも来られないのだから」
真一は意味ありげな瞳でわたしを見つめていたものの、何も言わなかった。
最寄りの駅に着いたが、わたしは家に帰る気はしなかった。わたしは真一の腕を掴んでいた。
真一は何も言わずにわたしの頭をポンと叩いた。
「良い場所に連れて行ってやるよ」
真一はわたしの腕を掴むと歩き出した。真一はわたしの歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれる。
わたしと真一は三島に最初に会ったときに連れてこられた森に来ていた。真一はわたしの手をしっかりと握ってくれていた。
森の中をしばらく進むと、わたしたちの目の前に小さな小屋があった。
真一はコートから鍵を取り出すと、小屋のドアに差し出した。小屋のドアを開いた。
「ここなら泣きたいだけ泣けるだろう? ここは祖父のわたし有地だから僕や三島以外はほとんど入ってこないし」
なぜこの人はこうやってわたしの気持ちを分かってくれるのだろう。
わたしの瞳からはいつの間にか涙が溢れてきていた。
涙の量が増えるに伴い、わたしの抑えていた感情が昂ぶり、堪えきれなくなった。わたしは唇を噛み締めると、真一の腕を掴んだ。
彼はわたしの頭を軽く叩いた。
「泣きたいだけ泣いていいよ。誰にも気にしなくていい」
その言葉がスイッチになったかのようにわたしの感情は堪えきれなくなった。感情を抑えきれなくなった具体的な理由は探せばいくらでもあるだろう。それらに対する不平や不満や悲しみは全て嗚咽となってわたしの体外へ出て行った。
わたしは真一のコートの胸の辺りを掴むとずっと泣いていた。真一はそんなわたしの傍にずっと居てくれた。
わたしは願書の出願をもともと希望していた地元の国立大学ではなく、北海道の大学に出願することにした。
おばあちゃんにそのことを打ち明けると笑顔で構わないと言ってくれ、わたしは胸を撫で下ろしていた。




