壊れゆく平穏
翌日、わたしは朝早くから三島さんの家で勉強をすることになった。家に来たわたしを千恵子さんが出迎えてくれた。
「久しぶりね。もっといつでも遊びに来てくれたらいいのに」
「受験生で合格が危ういのに遊んでどうするんだよ」
いつの間にか玄関先まで来ていた三島が苦笑いを浮かべていた。
「そうだけどね。ほのかちゃんがもうすぐここを出て行くとなると寂しくて」
「たまに戻ってくるだろうし、遊びにきたらいいよ」
三島は大げさに肩をすくめた。
「そうよね。どうせなら、わたしの娘になってほしいくらいよ」
「早く勉強しよう」
三島さんは千恵子さんの相手をするのに疲れたのか、冷たくあしらっていた。
そのとき、リビングから音が鳴った。
「電話みたいだよ。行くよ」
わたしは三島に促され、階段を上がる。彼の足は二階の突き当りで止まった。
そのとき、三島さんの部屋から携帯電話の着信メロディが響いた。
彼は部屋に入ると、携帯を取った。
わたしは初めて入る彼の部屋にドキドキしながら、辺りを見渡した。
殺風景で、ものの少ない部屋。ここで17年の時間を過ごしているようには見えなかった。
男の人の部屋はこんなものなのだろうか。
横目で三島さんを見たとき、彼の顔が強張っているのが気づいた。彼は分かったと言葉を紡ぐと、電話を切った。
「どうかしたの?」
わたしは嫌な予感を感じつつ、尋ねた。
「由紀が怪我をして、今病院にいると」
「怪我? 大丈夫なの?」
「大丈夫だとは思うけど、自分で手首を切ったらしい。傷は浅かったらしいけど……」
わたしはその意味を悟った。
彼女がなぜそんなことをしたのだろうか。
わたしは拳を胸の前でぎゅっと握り締めた。わたしには一つ思い当たることがあった。だが、それを否定したくて堪らなかった。不安や恐怖からか心拍数が上がっていいった。
「わたしのせいかもしれない」
三島さんはわたしの言葉に怪訝そうな表情を浮かべていた。
「昨日、お父さんが会いに来て、一緒に暮らそうって言われた。わたし、断った」
だが、彼が自分なりのけじめをつけようとして、それを家族に告げたとしたら。そう考えると物事がつながった。
三島さんはわたしの頭を撫でた。
「そうやって自分で自分を責めるのは良くないよ」
わたしは三島さんの言葉に頷いたものの、受け入れられなかった。
「黙っていたけど、昨日の夜中、由紀が来た」
わたしは驚き、三島さんを見た。
「君とのことを聞かれたから、素直に答えた。好きだって。そしたら幸せにと言って帰っていった。あのときから様子がおかしかったような気がする」
わたしは初めて三島さんの気持ちを知った。それもこんな形で聞かされるなんて。嬉しい気持ちと共に、由紀に対して申し訳ない気持ちになった。
どちらにしてもわたしに原因があることが間違いない。
謝ってすむとは思わないが、いてもたってもいられなかった。
「見舞いに行きたい」
「俺も行ってみようと思う。一緒に行く?」
わたしは三島さんの申し出に深く考えずに頷いた。
電話は真一からで、由紀さんはそのまま病院に入院しているらしい。
怪我はひどくないが、彼女の精神的な面を考慮してとのことだった。
千恵子さんには何も言わずに家を出ることにした。彼女には三島さんが怪我の状況を把握してから、後から説明をすると言っていた。
わたしと三島さんは地元では比較的大きい総合病院に向かった。その三階に由紀さんは入院しているそうだ。
彼女の部屋番号まで行くと、名前が一つしかないのに気付いた。どうやら個室のようだ。
三島さんと目を合わせると、彼がノックした。
返事が聞こえ、真一が部屋か出てきた。真一はわたしたちを見ると、何か言いたげな表情を浮かべたものの目線を下に逸らした。
「ちょっと向こうで話がある」
真一の話を遮ったのは明るい女の声だった。
「将、来てくれたんだね」
真一は眉間にしわを寄せると三島さんを見て、彼に部屋に入るように目配せした。
三島さんは一度だけ頷くと、部屋の中に入っていった。
「真一、将に何か飲み物を買ってきてあげてよ」
「まだ藤田が外に」
そう言ったのは三島だった。部屋の中の様子は見えないが部屋の中の張り詰めた雰囲気が伝わってきた。
「そう。中に入ってきたらいいわ」
先ほどとは同じ人と思えないほど、抑揚のない声が耳に届いた。
真一がそっと唇を噛みしめるのに気付いた。
わたしはここに来てはいけなかったのだと、そのとき悟った。
わたしは頭を下げると、部屋の入り口に立った。わたしは由紀に視線を送ったが、由紀の表情を見て思わず目を逸らした。彼女はわたしを鋭い目つきで睨み付けていた。
彼女は枕元に置いてあった花束手に取り、三島さんに差し出した。そして、枕元にある花瓶を指さした。
「将、このお花を花瓶に生けてきてくれない?」
三島さんは頷くと、花と花瓶を持って部屋を出て行った。三島さんが部屋を出て行って一分ほど経ったときだった。冷たい声が辺りの声を凍り付かせた。
「何しに来たの?」
わたしの腕に鳥肌が立つのが分かった。
「お見舞いにきた」
わたしの声が徐々に小さくなっていった。
「誰のせいでこんなことになったと思っているの?」
「やめろよ」
真一は強い口調で由紀をたしなめた。こんなに強い口調で話す真一をわたしは初めて見た。
だが、由紀は決意を固めたのか、真一の言葉に全く怯む様子はなかった。
由紀は眉間にしわを寄せ、わたしを睨み付ける。初対面でわたしに見せた笑顔とは全く別物だった。
「知っていたわよね? わたしがずっと将のこと好きだったってこと。あなたさえいなければわたしは彼と結婚できたかもしれないのに。少なくとも傍にはいられた。あなたのお母さんがあなたを産まなければよかったのよ。あなたなんていなければよかったのよ。わたし、あなたが将と付き合うなら死んでやるから」
「由紀」
真一が由紀の腕を掴んだ。だが、由紀は真一の腕を振り払った。
「わたしから将やお父さんを取らないで。わたしだって、わたしの家族だって後ろ指さされてきたわ。あなたたちだけが辛い思いをしてきたわけではないのよ」
「もうやめろよ。由紀」
「何でこんな女を庇うの? この女が居たからわたしたちは不幸になったのよ。お父さんだって離婚話など切り出さなかったはずでしょう? あなたはやっぱり双子の姉よりもこんな女のほうが大事なのね」
その言葉に真一が顔を引きつらせた。
離婚という言葉を聞き、わたしは高宮の一緒に暮らそうという話を思い出していた。
断わり、わたしの中では終わった話だった。だが、そうではなかったのだ。
「もうここから出て行って。あなたが出て行かないならわたしが居なくなる」
わたしは首を横に振った。
「邪魔してごめんさない。お大事に」
わたしは踵を返し、部屋から出ようとした。そのとき、部屋の前で三島さんとはちあわせをした。彼はわたしの手を掴み、わたしの顔を覗き込む。
わたしは三島さんから目を逸らすと、首を横に振った。彼に伝わったかは分からないがごめんね、の意味を込めたつもりだった。
三島さんは何も言わずに、わたしの手を離した。
わたしは病室を出ると、早足で病院の外に出た。少しでもこの病院から離れたかった。




