母の古い友人
高校三年生の夏、母親の千明が亡くなった。交通事故だった。
早朝の日が昇りきらないうちに起きた事故で目撃者はいなかった。犯人は不明のまま、警察から遺体を引き取り、火葬だけしてもらうことになった。
本来は葬式を挙げるべきなのかもしれないが、そんなお金はなかった。火葬の資金も母の貯蓄していたわたしの学費からなんとか出したものだった。彼女が無理に葬式などをしても喜ばないことも分かっていたし、呼ぶ人も思い当たらなかった。
テーブルの上においてあった母の写真に目を向けた。
彼女は年齢よりも若く見られていた。大きなぱっちりとした二重の瞳に、赤い唇が母親の顔をより幼く見せているのかもしれない。可愛いお母さんと友達からよく言われる人だった。だが、母親の一生を振り返ってみて、彼女は果たして幸せだったのかと疑問に思う。
わたしはいわゆる母子家庭に生まれ育った。豊かな生活ではなかったが、母に対する否定的な気持ちは皆無だった。彼女は自分を一番の宝物だとことあるごとに言ってくれたからだ。
わたしは彼女の子供として生まれて、幸せだった。
だが、同時に心に鈍く突き刺さる感情もあった。それは自らが母親の幸せを奪い取ってしまったのではないかという気持ちだった。
父親のいない子というのがどのような環境で産むことになったのかは想像ができる年齢に達していた。
もちろん、そのような気持ちを母に伝えたことはない。彼女が否定するのは明白だったからだ。
視界がぼやけてきた。自分の気持ちを振り払うために、目にたまった涙を拭った。
ここで悲しみに明け暮れても彼女が喜ばないことだけは分かっていたからだ。
強く生きよう。
そんな語りにもにた言葉を何度も浴びせた。
不意に鼻の奥がつんと刺さるような痛みを感じる。
せめて別の場所で泣こうと思ったとき、一定のリズムを刻むようなリズミカルな音楽が鳴り響く。電話の音だった。
わたしは涙を拭うと、受話器に手を伸ばす。
「三島と言いますが、お母さんはいますか?」
「どなたですか?」
不信感を露にし、強い口調で電話の向こうの女性に尋ねた。
声からすると年齢は三、四十歳ほどであろうか。若くもなく、年老いてもいない、そんな声だった。
「高校の同級生ですが、今こちらに出てきているのでお会いできればと思って」
その言葉にどう答えるか戸惑った。高校の友人と名乗ってしつこいセールスを掛けて来る人間もいる。だが、本当の友人の可能性も否めない。
警戒心をあらわにした後、すっと心が何かが落ちるのが分かった。どちらにせよ口にする言葉は変わらないのだ。
唇を噛み締め、声を絞り出した。
「母は先日事故で亡くなりました」
できるだけ淡々と感傷的にならないように語った。
受話器の向こうから悲鳴に近い女性の声が聞こえてきた。
その言葉に抉られるような胸の痛みを感じる。
「いつ、ですか?」
言葉が震え、今にも消え去りそうなほど小さな声だった。
その言葉にわたしはより深く胸の奥を抉られるような感触を覚え、唇を噛み締めた。
「三日前に交通事故で」
長い沈黙の時が流れた。
「そう。もう少し早ければよかった。あなたはほのかちゃんよね? そちらの家に訪問して構わない?」
「どうしてわたしの名前を知っているんですか? それに家も」
「千明に聞いていたのよ。それにあなたは覚えていないと思うけれど、わたしはあなたと一度会ったことあるのよ」
女性の言葉に素直に驚いていた。きっと彼女が言っているのは本当のことだ。そう感じ、彼女の言葉に返事をした。
それから一時間ほど経過した後、玄関のチャイムが鳴った。インターフォンに応答すると、電話口から聞こえてきたものと同じ優しい声が耳に届いた。彼女は「三島です」と自分の名前を告げた。
わたしが玄関を開けると、小柄で水色のサマーセーターに黒のタイトスカートを履いた女性が立っていた。
彼女は奥二重の瞳でわたしをじっと見ると、優しい笑みを浮かべた。
派手さはないが母性的な温かみのある女性だった。だが、彼女に会った気がするかと自分に問えば、そのような記憶は全くと言っていいほどなかった。
「大きくなったわね」
わたしはその言葉にどう反応していいのか分からなかった。
千恵子さんはわたしの迷いに気付いたのか、口元に笑みを浮かべ、鞄の中から写真を取り出した。それをわたしの目の前に差し出した。
その写真にはセーラー服を着た女性が三人写っていた。一人はわたしの母親で、もう一人は彼女のようだった。もう一人はどこかで見たことがある気がするが、どこで見たのかは思い出せなかった。とりあえず知り合いだと言っていた彼女の言葉は本当のことだったのだろう。
人を疑わずに済んだことに胸を撫で下ろした。
「わたしは三島千恵子と言います。あなたのお母さんとは同じ高校に通っていたのよ。これはそのときの写真」
「お茶なら出せますから上がってください」
彼女はわたしの言葉に会釈を浮かべた。
千恵子さんはお茶に口を付け、溜め息を吐いた。
千恵子さんの目の前には母親の写真が置いてある。彼女は母の写真を見ながら目にハンカチを当ていた。泣き出すわけでもなく、唇をじっと噛み締めているようだった。
「わたしのことは憶えてないでしょうね。あなたの小さい頃一度会ったきりだから。あなたが四歳のときだから」
わたしは千恵子さんの言葉に頷いた。
「それでもあなたのことは千明から聞いていたわ。あなたの小学校、中学校、最近だと一か月前に電話をもらったわ。あなたのことをとても嬉しそうに教えてくれたの。いままで大変だったでしょうね。千明もあなたに不自由させているんじゃないかと気にしていたわ」
わたしは首を横に振った。その言葉に目元がじんわりと熱くなる。
「そんなことないです。お母さんは一人で大変だったのに本当に良くしてくれたから。むしろ幸せだったと思います」
その言葉に千恵子さんは笑みを浮かべる。彼女の笑みは心から嬉しそうだった。彼女の笑みを見ていると、不思議な気分になった。
「あなたは本当に千明に似ているわ。まるで若い頃の千明を見ているみたい」
「そうですか?」
わたしの家には母親の若い頃の写真などなかったため、単純に驚いていた。わたしは母の若い頃を何も知らないのだ。それは映画かドラマのワンシーンをどこか遠くから見ているような感覚だ。
「千恵子さんはわたしの母親の高校の同級生なんですよね?」
千恵子さんはわたしの言葉に頷いた。
「お母さんってどんな生徒でしたか?」
わたしの母親は十八歳でわたしを産んでいる。彼女は十七歳の高校三年生のときにはわたしを身篭っていたのだ。
わたしは十月生まれだ。母親は、高校は一応卒業しているようだった。誕生日から逆算し二月の段階で妊娠していたということは、在学中はお腹も目立たなかっただろうし、隠しながら卒業したのか、もしくは学校に知られていたのかは定かではない。
母親には真面目で大人しそうなイメージがあるので遊んでいたとは考えにくいが、父親がいないのでそのことは否定できないだろう。わたしは母親や父親のことをを知りたかったのだ。
千恵子さんはわたしの言葉にふふふっと笑っていた。
「千明は綺麗で、勉強が良く出来る子だったわ。あといつも人のことばかり考えていた」