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お父さんの提案

 暖かい日々はあっという間に終わりを立ち去って行った。受験生で成績がきわどいわたしには、そんな四季の様相を楽しんでいる余裕もなかった。わたしにはそれでよかったのだと思う。今はお父さんのことであれこれ考えたくなかったのだ。


 三島さんはあれからお父さんの話には触れなかった。あの森で聞いていた人についても話題に上ることは一度もなかった。彼はわたしの家庭教師のように、勉強を頻繁に見てくれていた。


 真一も以前と同じようにわたしと接してくれていた。彼には辛い選択だったかもしれないが、それがわたしを安心させていた。


 大学は三島さんと同じ学校に決めた。ここからだと通えなくもないが、おばあちゃんと話し合い、大学の近くで一人暮らしをすることになった。今までのように一緒にすめなくはなるが、おばあちゃんもたまになら遊びに来てくれると約束してくれたのだ。


 わたしが無難に大学に合格したら、春までしかここに住まないことになっていた。



 今日は冬休みの初日だった。だが、今日も三島さんに勉強を教えてもらうことになっていた。


 学校の空き教室は受験生に提供されているので、学校で教わる予定だ。千恵子さんは自分の家でもいいと言ってくれていたが、そう毎日のように厄介になるわけにもいかなかった。


 わたしが学校に行こうと家を出たとき、背後から呼び止められた。


 低い声にわたしは身を震わせた。そこに立っていたのは高宮和幸だった。


 彼は黒いコートを身に纏い、首元には紺のマフラーをしていた。テレビで見る俳優などよりも格好良い。


 もしこの人がわたしと何の関係もない人間だったら見惚れていただろう。


 彼はこの間のように怒りを露にすることなく、わたしと目が合うと目を細めた。


「呼び止めて悪いね」


 彼は苦笑いを浮かべていた。彼の表情からわたしは自分がしかめ面をしていたことに気付いた。


 何をしにきたのだろう。お父さんが……。

 そう思った直後、胸の奥が震えていた。

 父親なのに、決してそれを口に出すのは許されない存在。その矛盾がわたしの心を苛立たせ、わたしは唇を噛み締めた。


 だが、甘い気持ちに浸りそうになった心を抑えるために、冷たく言い放った。


「何か用ですか?」


「話は真一から聞いたよ。というかわたしが君の誕生日も含めて無理に聞きだした。あの子を責めないでやってくれ」


 わたしは唇を噛み、頷いた。

 彼は気づいたのだろう。自分の娘だと。

 真一にも随分酷なことをさせてしまった。


「この前は済まなかった。全然知らなかったんだ」


「それはわたしに謝ることではないと思います。だって、わたしの親はお母さんだけだったもの」


「そうだな」


 高宮さんは天を仰いでいた。


「今から学校? 今日から冬休みだと聞いたけど」

「勉強するために。三島さんに教えてもらおうと思って」


「途中まで同行していい?」


 わたしが頷くと、どちらかともなく歩き出していた。

 彼はなぜわたしに会いに来たのだろう。


「君のお母さんと出会ったのもこんな日だったな。もうずいぶん前のことだけど」


 彼は懐かしそうに言葉を紡いだ。


「お母さんのことを覚えていますか?」

「一日も忘れたことはなかったよ」


 彼は唇を噛んだ。


「一緒に暮らさないか?」

「何言って。あなたには真一や由紀さんや奥さんが居るじゃない。それに」


 三島から高宮さんは婿養子に入ったと聞いた。離婚をしてしまえば、全てを失うことは必至だろう。



「今の生活や家族を捨てることは仕方ないと思っている。それでもわたしは君と暮らしたい」


 わたしは高宮さんの言葉に首を横に振った。


「罪悪感からですか? でもそれがわたしやお母さんのためなら止めてください。だってお母さんはきっとそれを望んでいないと思います。望んでいたら、身ごもったことを教えていたはずです」


 高宮さんは黙ってしまった。彼にとっては一番痛いところだったのだろう。十八年間居ることさえ知らなかった娘のことは忘れるのが一番いい。


 それが彼のためであり、母もそれを願っているだろう。わたしも人の家庭を壊してまで、父親と暮らしたいとは思わない。


 わたしと高宮さんは森を抜け、学校まであと少しのところまでやって来た。わたしは彼に笑顔で告げた。


「ここまででいいです」


 わたしは彼に背を向けて歩き出そうとしたが、足を止め、肩越しに彼を見た。彼は切なそうな瞳でわたしを見ていた。


「一つだけ、聞いていいですか?」



 わたしの言葉に彼は頷いた。


「お母さんがもしあのときあなたに妊娠したことを告げていたらあなたは母と結婚しましたか? あのときのあなたの家庭の事情は知っているつもりです」


 彼はわたしの問いに即答していた。


「結婚したよ。ずっと彼女と一緒になりたかった。だから、あのときも」


 彼の目にうっすらと涙が浮かんだ。彼はその涙を拭った。


「十八年間、一度も会えなかったけど、一度も忘れたことはなかったよ」


 わたしは彼の口からその言葉が聞けただけで満足だった。それが例え後日談にしか過ぎなくても。


「今の家族をちゃんと幸せにしてあげてください。でも出来れば心の片隅でもいいから母のことを忘れないであげてください。母もずっとあなたのことを思っていたと思います。母は一度も恋人も作らず、わたしを可愛がってくれました。わたしが今まで幸せに生きてこられたのが証拠です」


 わたしは自分を指した。


 わたしは頭を下げるとその場を去った。もう高宮さんと二人で会うこともないだろう。蔑まれたままにならなくて良かった。


 わたしは歩を早めて歩き出した。瞳から涙が零れそうになった。だが、あと少しだけと思い、わたしは歩き続けた。


 ずっと会いたい気持ちはあった。だが、三島さんから実の父親の話を聞かされ、真一に知られ、もう忘れようと決意した。それでよかったはずなのに、なぜか分からないがわたしの目からは大粒の涙が溢れようとしていた。


 曲がり角を曲がったとき、わたしの涙腺は限界に達していた。わたしの瞳から一気に涙が溢れ出した。


「お父さん」


 その精一杯の言葉は、冷たい空気の中に飲み込まれていった。


 学校に到着すると、もう三島さんは学校に着いていて問題集を解いていた。


 わたしの顔を見ると、笑顔を浮かべる。だが、その笑顔が一瞬のうちに消え去った。


「大丈夫?」


 わたしは三島さんの言葉に我に返り、涙を手の甲で拭った。


「大丈夫」


「一人で溜め込むなよ。いつでも話を聞くから」


 三島さんの言葉に再度涙が溢れそうになる。わたしは何でこんなに幸せなのだろう。わたしのことを心配してくれる人がここには沢山居る。


「心の整理が付いたらきちんと話すから、もう少し待って」


 わたしの言葉に三島さんはそれ以上追求せずに、ハンカチを鞄から取り出してわたしに渡してくれた。


「ありがとう。勉強しないとね」


 わたしは彼から借りたハンカチで涙を拭いながら笑顔を浮かべていた。


 だが、その日はほとんど勉強が手につかず、一時間ほどで切り上げて家に帰ることになった。



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