心無いうわさ
次の日、学校に行くと思っていたようないじめもなく、昨日のことが何もなかったかのように時間が流れていく。何事もなかったとは言い過ぎだろう。
一時間目が終わった後、西岡さんがわたしの傍を通り過ぎ、こう言葉を漏らしたのだ。
「本当に図太いわね」
わたしは気にしないようにした。わたしが声のしたほうをみると、話していた二人が一瞬のうちに黙る。わたしは気にしないと自分に言い聞かせる。
わたしが三島さんを見ると、彼はいつものように無表情のままテキストを捲っていた。いつもと変わらない三島さんの様子がわたしを一層安心させた。
その日の帰り、わたしは気晴らしも兼ねて、いつもと違う道を歩いて帰ることにした。
知らない人の家の前を通ったとき、人の話し声が聞こえてきた。楽しく会話をしているというよりは内緒話のように押し殺した声だった。
本能のようなものが働いたが、素知らぬ顔でその家の前を通り過ぎようとした。
そのわたしの足がぴたりととまった。
「わたしも聞いたわ。藤田さんのお孫さん帰ってきたってね。姿は見ていないけれど、どんな感じなの? 今、高校三年ということは、やっぱりあの人との子供なのかしら?」
間違いなくわたしのことだ。そして、あの人、という言葉に心臓をわしづかみされたような痛みを覚えた。この人たちはわたしの父親のことを何か知っているのだろうか。
わたしは電柱の影に隠れると、二人の会話に耳を傾けていた。
「二股かけていたら別だけど、そうじゃなかったらそれしかないわよね。顔は千明ちゃんに似ているから顔は判別つかないわ」
「そう。父親に似ていたら面白かったのに。でも、この町に帰ってくるなんて図太いわよね。あの人が父親なら、財産目当てだったりして」
「ということはあそこのお祖母さんもグルってことじゃない? あの人の旦那さんもいろいろ問題の多い人だったし。蛙の子は蛙ってわけよね」
その言葉を聞いてわたしは愕然とした。
「千明ちゃんは悪い子じゃなかったけどね。そもそもあの子が産まれなければ千明ちゃんはこの町を出て行くことがなかったわけだし。別にあのときにあの子を産まなくても良かったじゃない? おろせばよかったのに」
わたしはその言葉に思わず唇を噛み締めた。
「あの子が居たから苦労したのは確かね。みんなそう言っているわよね。そう思えば、あの子もあの子で可哀想ね。誰もあの子の出生を望んでいなかったのだから。あの子のお父さんだって、今更でしょう」
「そもそもお父さんのことがわかればここにいられなくなるんじゃないの? あそこの奥さん、怖いしね」
彼女たちはくすくすと笑っていた。
わたしは足音を押し殺し、来た道を戻っていった。
わたし自身分かっていた。わたしが不幸の元凶だ、と。それを赤の他人に言われたことがショックだったのかもしれない。
わたしの目からは自然と涙が溢れてくる。わたしは近くの木の影に屈み込むと、押さえきれなくなった涙が一気に体の外に出てきた。
「ごめんなさい」
母親はわたしを責めることなどしなかった。それが余計にわたしを辛くさせた。
わたしは何度も母親に謝った。それが母親に届かないと分かっていてもそうせずにはいられなかったのだ。
「藤田?」
わたしはその言葉に思わず振り向く。そこには三島が立っていた。
彼はわたしの顔を見ると驚いたように目を見開く。
「どうかしたのか?」
わたしは何度も頭を横に振った。言えるわけがない。わたしがお母さんを不幸にしたなど。
「何でもないの」
「誰かが何か噂話をしているのを聞いたのか?」
わたしは三島さんの言葉に何も答えられなかった。それが三島さんへの返事になったようだった。
「誰に言われた?」
わたしは何度も首を横に振った。
「わたしの全然知らない人だと思う。わたしがいなければよかったのに。おろしたらよかったのに、って」
三島さんは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。
「人のうわさを抑制することはできないから、気にしないのが一番だよ。こういうところには一人くらいは必ずとやかく文句を言う人間がいる。最初は慣れるまで大変だと思うけど。でも、内容が内容だよな」
彼はわたしの正面で屈んだ。
「ここで生まれ育ったら言われなかったのかな」
「そうでもないよ。暇なんじゃないかな。俺だってあれこれ言われたよ。一番面倒だったのが由紀の件。財産目当てで由紀に近づいているだの、由紀と結婚して真一を家から追い出すつもりだの、家のローンを由紀の両親に払ってもらっているだの、常識的に考えておかしいことを平気で言う人間がいるからな」
「そんなこと言われていたの?」
わたしは突拍子もない内容に、悪いと思いながら噴出していた。そんなの高校生のわたしでもおかしいと分かる内容だ。
三島さんは苦笑いを浮かべながら頷いていた。
「由紀の家は金持ちで、由紀の父親も実は婿養子だから。また婿養子を取るのではないかという変な先入観で物事を憶測したりしているよ。暇なら人の噂話をするのでなく、もっと有意義に時間を使えばいいのにさ。本当にくだらないよな。だから気にするなよ」
三島さんはわたしの頬の涙を手で拭った。その手がとても暖かく、わたしはその温もりにずっと浸っていたくなった。
「千恵子さんからわたしのお母さんのことは聞いた?」
三島さんはわたしの言葉に首を横に振る。
「そこまで詳しくは知らない。母親と昔同級生だったとかくらいしか」
「わたし、お父さん居なくて、ずっと二人暮らしだったの。生活は豊かでなかったけど、わたしはお母さんから愛情受けて育ったし幸せだった。でもお母さんは果たして幸せだったのかな? 結婚もせずにわたしを育てるためだけの人生だったようなものなのに」
三島さんはわたしの目の前で腰を下ろすと、優しく微笑んでいた。彼はハンカチを取り出し、わたしに渡す。
「藤田が幸せだと感じたならお前の母親もきっと幸せだったと思うよ。家で見つけたけど、こういう写真を家に送ってくるわけだから」
三島さんはバッグから写真屋で貰う簡易アルバムを取り出し、わたしに渡す。
わたしはそのアルバムには手紙が添えられていた。その手紙は母の字でわたしのことがいかに大切か、そう書かれていた。
わたしはその手紙を読んで思わず涙が溢れてきそうになった。手紙の様子からがわたしを嫌っているどころか、迷惑そうな素振りさえもなかった。
「だからそんなこと気にするなよ」
三島さんの言葉に頷くと、涙が自然と溢れてきた。
なぜ母親が生きている間にもっと親孝行しなかったのだろう。それだけが気がかりだった。
「でも良く考えると、これってすごく親バカじゃない? 千恵子さんにはものすごく迷惑かけたよね」
三島さんはわたしの言葉に苦笑いを浮かべていた。
「あの人はそんなこと考えないよ。お前のことも実の娘みたいだって言っていたからな。このアルバムだって、機会があったらお前に見せてくれと頼むぐらいだよ? その機会がなかなかなくて常に持ち歩く羽目になったのだけど。お前が自分で自分のことを母親の荷物だったのではないかと気にしているのではないかと思って」
わたしは母親が死んで一人だと思っていた。だが、祖母や千恵子さん、三島さんがこうやって励ましてくれる人がいて、自分が一人ではないと思い知った気がする。
「こうやって心配してくれる人が居て。わたしって幸せものだね」




