叶わない夢
長い一日を終え、わたしは家に帰ることにした。今朝の地図を見ながらわたしは家へ向かうことにした。その途中で洋風の家を通りかかったとき、一人の女性の声を掛けられた。
千恵子さんを見ると笑顔を浮かべた。彼女はどこかに買い物に行った帰りなのか両手に買い物袋を提げていた。
「今日が学校の初日だっけ? どうだった?」
「今朝、学校行くときに迷ってしまって。同じ学校の人に案内してもらったりしたけどなんとか無事に終わりました」
「いい人に出会えてよかったわね」
千恵子さんは笑みを浮かべた。彼女はわたしの背後をそっと指さした。
彼女の指の先にあったのは、外壁が茶色の家だ。千恵子さんが指差しているのはその家のようだった。
「お邪魔しようなか」
彼女はうなずく。
「でも、高校までの道はややこしかった? わたしの息子に案内させれば良かったわね。あの子は人見知りするからどうかと思ったのだけど」
「息子?」
わたしと千恵子さんが家の中に入ろうとドアを開けたときだった。玄関先には先着者がいた。その人はわたしを見ると、眉間にしわを寄せる。何か言いたいようだが、何も言わずに靴を脱いで家に上がる。そんな彼を千恵子さんは嗜めた。
「全くちゃんと挨拶くらいしなさいよ。ほのかちゃんよ」
「学校で挨拶でしたよ」
三島は呆れたような口調で千恵子さんに話しかける。千恵子さんは目を見開くと笑みを浮かべていた。
「もしかしてもう顔見知りになったの? この子はうちの息子よ。人見知りが激しくて困っているのよ」
わたしは千恵子さんの言葉に考え込んでしまった。人見知りとは違う気がしたが、わたしはその言葉を聞き流すことにした。
「うるさいな。関係ないだろう?」
強い口調で三島は千恵子さんに食って掛かった。だが、千恵子さんにまったく動揺した気配はない。ということはこういった会話は日常茶飯事なのかもしれない。
「似ていませんね」
それはわたしの率直な感想だった。
「そうなのよ。この子は主人に似たのね」
「じゃあ部屋に戻るから」
そう言い歩きかけた息子の腕を掴んでいた。
「向こうの学校では勉強はどれくらい進んでいたの?」
わたしは主要教科の進み具合を簡単に告げた。三島さんは母親の手を振り払うことなく、わたしと千恵子さんのやり取りを聞いていた。
「こっちのほうが若干進んでいるみたいね。勉強はどう? 志望校はどうするの?」
「今のところは何も考えていません。国立大を希望していたけれど、なかなか厳しいみたいで。今のところはC判定で」
「勉強、この子に教えてもらったら? これで結構成績はいいのよ。ね、いいでしょう?」
千恵子さんは息子に目くばせした。
彼は眉根を寄せた。
でもこの人は恐らく拒むだろうな。わたしは三島さんを見てそう感じていた。だが、わたしの耳に届いた返事は意外なものだった。
「別にいいよ」
三島さんはわたしの顔を睨み付けていた。本人に睨んでいたつもりがあるのかは分からないが。
わたしは促されるようにして答える。
「いつでもいいけど」
「どうせなら、今から教えてあげたら? ついででしょう」
「別にいいけど。部屋に来てくれたら教える」
三島さんがそう言い残し、階段を上っていこうとしたときだった。
「ほのかちゃんと一緒に行きなさいよ。わたしは飲み物を持ってくるわね。あなたの部屋は狭いから、客間を使いなさい」
千恵子さんはそう言い残すと踵を返した。
「何で俺が」
千恵子さんにその言葉が聞こえていないのか、千恵子さんが玄関の右手にある様式のリビングに姿を消した。その場にわたしと三島だけが残される。
三島は溜め息を吐くと、投げやりな口調で言葉を発す。
「客間でいいか? 靴脱げば?」
わたしは靴を脱いだ。
三島は玄関の目と鼻の先にある部屋のドアを開けた。そこには豪華なソファや、掛け軸、花瓶のようなものまで飾られていた。
「俺は荷物を置いてくるから、適当に座っておいて」
三島さんはそう言い残すと部屋を出て行った。わたしはドアに一番近いイスに腰を下ろすと、数学の教科書を机の上に置いた。そこでやっと一息ついた。
急によくわからないことになってしまった。
「受験か」
わたしはどうしたらいいんだろう。
この家に来てからは、具体的に考えないようにしていた。
いい大学に入って、いい会社に入る。そして、母親に楽な生活をさせたい。
そんな願いはもう敵わないものになってしまったのだ。
といっても、成績が追い付いていないのが情けないけれど。
「何か考えごと?」
顔をあげると、白いシャツに黒いパンツを履いた三島が部屋の中に入ってきた。先ほど座っていた場所に腰を下ろした。
「なんでもない」
「無理には聞かないよ。それでどこを教えたらいい?」
三島は全く気にした素振りもなく、一方的に会話を進めた。
彼は手にしていた教科書を机の上でめくった。
彼はわたしがどこまで教わっていたか確認すると、目線を走らせた。
「結構遅いな。学校ではもう教科書の内容終わっているから。分からないのは内容が?」
「教科書の内容は分かるけど、問題になると詰まってしまって」
千恵子さんがそっと部屋に入ってきて、わたしと三島の前に麦茶を置く。わたしは千恵子さんに頭を下げた。
三島は気がついていないのか無反応だった。
「そしたらこの問題解いてみてくれ」
わたしは差し出された問題を解き始めた。計算式を作ろうとして三番目の項で引っかかった。
三島の冷たい視線がわたしに向けられているのが分かった。こんなところも分からないのかとまた冷淡な口調で言われるのではないかと思い、頭をフル回転させて式を導こうとするがどうしても出てこなかった。
「ここか?」
わたしは三島の言葉に頷いた。
「ピンと来ない」
「ここはな」
三島はそう言うと、図に線を何本か書き加え、説明をし始めた。三島の説明は学校の先生の説明よりも端的で分かりやすかった。
「なるぼど。ありがとう」
わたしはその式を書きあげると、計算して三島に見せた。わたしの書いた式を目で追いながら頷いた。
「いいよ」
わたしはその言葉に胸を撫で下ろし、千恵子さんの持ってきた麦茶に口を付けた。いつの間にかカラカラに乾いていた口の中に水が潤った。
「教えるのが上手いね」
「習ったところだから」
わたしの言葉に三島は淡白に答えた。
「一つずつ教えてもいいけど、教科書を読めば一通り理解できるとは思う。こことここ、ここを解いてきれくれ。これが解けなかったら基礎的な理解自体が追い付いてないということだろうからな」
「分かった。まさか教科書が終わっているなんて思いもしなかった」
「割と受験に力を入れているからな。分からないことがあったらいつでも教えてやるよ」
わたしはその言葉に微笑み、頷いた。わたしが考えていたような怖い人ではないのかもしれない。
「聞いていい?」
三島は自分の傍に置いてあった麦茶に口を付けた。
否定されなかったため、わたしは自分の気持ちを言葉で紡ぎ出した。
「大学、どこ希望しているの?」
「教えない」
三島はあっさりと答えた。彼は一気に麦茶を飲み干してしまった。
「ケチ」
「俺は親しい人にしか自分のことは教えない主義」
「高宮真一さんと由紀さんと仲良いんだっけ? あの人たちなら知っているのかな」
「親しいって言うか幼馴染だよ。真一とは仲がいいほうだとは思うけど。志望校も真一が知っているから、由紀も知っているかもな」
名前で呼んだことに少なからずドキッとしていた。
「そんなくだらないことしか聞くことがないなら、もう俺がいなくても大丈夫だな。まあ、勉強は教えてやるよ」
彼はそう言い放つと、立ち上がり、さっさと部屋を出て行った。
階段を上がる音が耳に届いた。
「そっけない」
わたしはぽつりとつぶやいた。
そのつぶやきに呼応するように、客間の扉が開いた。




