空の青
「空。青いだろ」
木々の生い茂る中で、突如上を向けと言われた私は、続けて発せられた言葉に困惑していた。
『ついてこい』
重大な決心を前に悩んでいることを相談したとき、先輩はただそう言って私に背中を向けた。彼の口から発せられた声よりも、その背中はずっとずっと頼もしく、無条件について行きたくなる空気を持っていた。
そして、気がつけば森の中へと足を踏み入れていたのだった。
「……青い、ですね」
深緑の葉が重なる隙間から、ちらちらと覗く空の色を見ながら答えた。今日は快晴なのか、どの瞬間を切り取っても、ただ青いだけの空が見えた。
「どれが本物の青だ?」
え。の声も出ないまま、先輩の言葉を頭の中ひたすら反芻した。どれが本物の青だ。どれが本物の青だ。どれが……
「……あの、いくつもの青が見える中でってことですよね」
はっきりと自覚するほど、間の抜けた声が出た。
生い茂る葉によって作られる隙間は、一つではない。葉に切り取られた小さな空の色は、大きいも小さいもなく、どれも同じように青かった。西の端と東の端の色を比べても、大差はない。一様に青く、透明で、底のない空色だった。
「どれが、本物の蒼だと思う」
あまりにきっぱりと言い切る先輩に、質問の真意を問いかねていた。本物の蒼とは。どれが……?
何を尋ねたいのだろうかと考え込むうちに、モヤモヤと居心地の悪い感覚が胸の中に立ちこめてきた。こんな足元の悪い場所へ連れてきて、訳のわからぬ問いを投げかけてくる先輩に、腹立たしさにも似たものを覚える。
まったく無意味な足労だった。もう先輩を置いて帰ってしまいたい。もっと別の人へ相談すればよかったのだ。だんだんとモヤモヤは増し、強くなり、体を支配するようにまでなった。
「分かりません」
ついに私は、投げやりに返した。そんなもの、分かろうはずがない。本物なんてないと思った。どれもみんな青で、どれもみんな向こう側では繋がった一つの空で、それの色に本物も偽物も見つけられようはずがないと感じた。
「そうだろう」
堂々と言葉を返してきた先輩に、なおも不快感を募らせる。なんだってこの人は、悩んでいる人に対し、余計なことを考えさせるのだろうか。考えさせた上で、こんなにも嫌な思いをさせるのだろうか。
「どれも青いんだ」
自信にあふれた声。普段なら、頼りになるアドバイスや指示を出して、私たちを鼓舞してくれるこの声も、今ばかりは恨めしいだけだった。
どれも青い。その通りだ。だから分からないと言っているのだ。むすっと口をつぐんで、私はたくさんの緑とほんの少しの青を見上げた。
「どれも本物だ」
急に柔らかくなった先輩の声は、語りかけるように言った。不意に、素直になる自分がいた。
「どれもが正解で、どれもが本物の青だ。どれを選んでも正解だし、たどり着く先はひとつ。空だ」
途端、心がぽっかりと空っぽになるのを感じた。寂しさや空虚ではない。どこか心地のよい、おだやかな……海だ、と思った。太平洋の真ん中……行ったことはないが、きっとそこも、穏やかで優しくゆったりとした時が延々と流れる、そんな場所なのだろう。
それは豊かな沈黙だ。満たされた時だ。何者にも邪魔されない、確固たる静けさだ。
先輩の横顔を見つめた。遠く、遠くを眺め、ずっしりとそこから動かない、ずっと昔から居座ってきた切り株のようだった。
「空にたどり着くことが、目的なんじゃないのか?」
首をめぐらせ、先輩が目を合わせてくる。
私は少しも迷うことなく見つめ返していた。
風は穏やかに頬を撫ぜ、そしてかすかなざわめきを生み出すと、通り過ぎていった。足跡も残さずに。




