トロヤ海峡
この作品は「HADAL ZONE」と同じ世界を舞台にした作品です。「HADAL ZONE」を未読の方は読むことをお薦めします。既出用語の説明はしていません。
エウロパの歴史を再録します。
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エウロパ小史
西暦二二〇〇年代初頭、人類は火星に続いて木星に植民し、勢力を拡大し続けていた。地球と月、火星を支配しているのはELM連邦とよばれる国家群だった。二二三五年、エウロパの植民地にいた松田綾は、奇妙な夢を見る。深海で巨大な甲殻類の先住民に、ある提案をされる夢だった。やがて夢は現実となる。サルタンと名乗る先住民と契約した綾はマクスウェルの悪魔と同じ能力を獲得する。サルタンは巨視的量子効果によって核融合発電を行う。無尽蔵のエネルギー源を得た綾はやがてエウロパ独立運動の中心人物となってゆく。西暦二二三八年、エウロパを含むガリレオ衛星とタイタンは連邦からの独立を宣言する。独立勢力はキルヤ同盟と呼ばれた。
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夜のコリドーは静かだった。
船首モニターには木星が映っている。今日の太陽風は穏やかで、磁場も落ち着いている。鹿島少尉はブリッジで外部モニターを見るのが好きだった。抜錨までまだ時間があった。
彼女のささやかな楽しみは、デ・ルカ中佐によって中断された。中佐はブリッジに入ると、航路モニターを操作し始める。
「トロヤ海峡までどのくらいだ?」
「多分二三日でしょう」
「それでEKBドライブに入ったら?」
「一週間です」
それを聞いたデ・ルカ中佐は乾いたため息をついた。
「俺達が新兵のころは、地球まで五年はかかったもんだ」
「いつの時代の話をしてるんですか?」
鹿島少尉は中佐をあしらうと、木星軌道に浮かぶドルフィンクラスの輸送船を見つめた。エウロパから軌道上の輸送拠点まで五時間といったところか。エウロパは地殻コアの改造による重力増加で、輸送ハブには使えない。それで木星軌道から出発するのだ。鹿島少尉はEKBドライブを想像して気が重くなった。固定剤は無害ということになっている。それでも未婚の女性には勇気が必要だった。
「それにしても」
鹿島少尉はつぶやいた。
「わざわざ、中佐が行く必要があるんですか?」
「仕方ないさ。大臣のお供だ」
デ・ルカ中佐は無表情で答えた。タイタンへのリフレクター分配率で、連邦はどうしても地球で交渉したいという。一方でタイタンのコア改造でも低温クラスター核が不可欠だが、難癖をつけられているのだ。
「プラグを使えばいいじゃないですか」
「駄目だ。アヤは使いたくない」
プラグを使えば簡単だが彼女は同盟の要だ。これ以上酷使するわけにはいかない。それは加奈も同様だった。プラグは二人しかいないのだ。他のパラサイコメトリストを使うわけにもいかない。
「低温クラスター核の何が問題なんですか?」
「まったくだ。歴史的感傷というやつだ。連中はタイタンの移民がどうなろうと知ったこっちゃないのさ」
低温クラスター核は戦略核ではない。タイタンの海底に沈めた小惑星を爆砕するには、開発コストを考えると他に選択肢はなかった。
「時間だ。抜錨する」
「了解」
中佐の指示で、少尉の疑問はさえぎられた。
「トロヤ海峡まで六十光秒」
鹿島少尉は航路計算を読み上げた。
「棺桶に入るとするか。お先に」
デ・ルカ中佐はそう言うと唇の端をつりあげた。EKBドライブはEKBスイングバイとも呼ばれている。EKBつまりエッジワースカイパーベルトから、木星軌道周辺に彗星を黄道面に対して角度をつけて入射させて、その軌道を利用する航法だ。彗星表面にはカーボンナノチューブ製の軌道ガイドが設置されていて、シンクロすれば後は地球まで牽引される。仕組みは超伝導リニアと同じだ。理論は簡単だが、かかる加速は人体の耐久限界を超えている。脳や眼球は文字通りぺしゃんこになる。加速に耐えるため固定剤を注入し、氷漬けにならねばならない。それだけのリスクを冒すことで、木星地球間を一週間で移動できるのだ。デ・ルカ中佐の言う棺桶とは、固定剤注入装置兼冷凍装置のことだった。
二人は冷凍装置の中で眠ったまま、木星とトロヤ群の間にある彗星の突入軌道、トロヤ海峡に向かう。予定通りなら、目覚めるのは火星をすぎて、地球への航路上になるはずだ。