宇宙速度
太陽が闇に溶けるとき、地球が太陽に負けるとき、そして大きな戦争が起こった時、最期の最後まで私が考えることはきっと1つなんだろうな。
そんなことを考えながら、ふと斜め前に座っている眼鏡の彼を見つめた。
ねえ、今あなたは、何を考えているの。
*
放課後は決まって理科室に向かう。これが私の日常。
一番苦手な教科が理科と数学なのに理科室に向かう理由は経った1つ。
それは、私が科学部だからだ。
この高校は全員部活参加を目的としている。
だから入学した時に入部届を渡させ、ゴールデンウィークまでにどこかの部活に入らなければならない。
強制ではないが入らないと部活顧問の勧誘があるらしく、半ば強制に入部させられることがあるらしい。だから、私は、一番幽霊部員が多いと言われている科学部に入部した。
一緒に入部したはずの友達の静は、いつの間にか幽霊部員の一員となっていた。
私も、そんな幽霊部員の一員になるはずだったんだ。
今頃、静と二人で楽しく放課後ライフを楽しんでいるはずだったんだ。
私は入部した時に後悔をした。
それと同時に、歓喜した。
静と一緒に職員室に行った時、入部届を出しに行った時先約がいた。
そう、それが彼。
小学校の時、私の隣に住んでいて、いつの間にかお引越しをしていた田中翔也君。
小学校に入学した時から眼鏡をかけていて、みんなから地味だと言われて、でもとても頭の良い男の子だった。
「あれ?もしかして田中翔也君?」
いつの間にか言葉を出しいていた。
極度の人見知りをいつも発揮する私が男子に声をかけている姿を静は少し驚いた様子で見ている。
「…もしかして、中俣由紀奈さんですか?」
彼はゆっくりと言う。
そうか、私のことを覚えていてくれたんだ。
たったそれだけのことで嬉しくなる。
そうなんだ、彼は私の初恋の人。
今まで忘れていた感情が、大波のようにどんどん押し寄せてくる。
一度落ちたことがある穴なら何度でも堕ちることができる。
それを無意識に教えてくれたのは貴方だったね。
それから後は簡単だった。
静と幽霊部員を決めていた私は、毎日のようにそこへ通いだした。
毎日そこへ通い、毎日彼の話を聞く。
難しい彼の話は、まるで宇宙人と交信しているようで楽しくはなかった。でも、私は確かに楽しんでいた。
「第一宇宙速度は、辛うじて地球の引力を…」
真面目な彼は、私が分かんないと言ったことを丁寧に教えてくれる。
昨夜のテレビ番組で宇宙速度という単語があがって、なんとなく気になって彼に聞いた。
すると彼は嬉しそうに瞳を輝かせ、1冊の厚い本を持ってきて、意味の分からないページを開き、長々と話し出す。
それが毎日続く。
「…っていう事なんだ。わかった?」
「全然分かんないよ」
「…正直なのはいい事だと思う」
彼は深いため息を吐きながら、ても優しい顔でそう独り言のように呟く。
優しいところや、真面目なところや、そして彼の全てが、好き。
「…ねえ、重力から離れるために必要な速度が、宇宙速度ってこと?」
「すごく簡単に言えばそういうことだね」
彼は窓から外を見ながら言う。
「なら、好きって気持ちが離れるために必要な速度は、どんな名前がつくのかな…」
「…さあ、知らない」
彼は相変わらず外を見ている。
いや、外にいる可愛い女の子、静を見ている。
知ってたの。
彼が初めて静にあった時から。
あの職員室で、彼が静に恋をした。
私が彼を見るように、彼も静を見ていた。
私も窓の外を見てみる。
そこには静と静の彼氏さんが仲良く話している。
「しーずーか!」
大きな声で彼女を呼んでみた。
彼女はこちらに気が付いて、大きく手を振り笑顔を見せる。
彼氏さんは軽くこちらに会釈をしている。
「ちゃんと部活して偉いじゃん!」
彼女は素敵な笑顔で私と彼を見つめる。
だから、私も素敵な笑顔で彼女を見つめる。
「ねえ由紀奈!明日の放課後久しぶりにあのケーキ屋さん行こう!期間限定でイチゴパフェやってるんだ!」
「いいよー!」
私は静に向かって大きく腕で丸を作る。
「じゃあこれからデートだからまたね〜」
静は大きく手を振る。
でも私は小さく手を振る。
静と彼氏さんは腕を組みながら、正門の方へ向かっていった。
私と彼はそれをじっと見つめた。
ねぇ、知ってる?
静って可愛いからいろんな人から告白されてるんだ。
でも、今の彼氏さんが大好きだから、すごいイケメンが告白してきても全部断ってきたんだ。
ねぇ、知ってる?
静と彼氏さんはお互いが初恋なんだって。
幼馴染で初恋で、まるで少女漫画だよね。
ねぇ、知ってる?
私も貴方が初恋だってこと。
初恋の人がお引越しして、でも高校に入学して出会うって、まるで少女漫画だよね。
でも、少女漫画みたいにうまくいくことなんて無いって、私は知ってるよ。
「……話の続きなんだけどね、どれくらいの速度なら、好きっていう気持ちが離れられるのかな…」
彼から静が、私から彼が、どれくらいの速度で離れることができれば、好きという引力から離れることが出来るのかな。
「…さあ、知らない」
彼はぼそりと呟いた。
その声は小さく、風の音に紛れ込むように私の鼓膜を震わせた。
私は彼を見る。
彼は、彼女の面影を追うように正門を見つめていた。