コールド・ブレス・ユー
【第17回フリーワンライ】
お題:王冠、零れる
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
※大遅刻
お題:王冠、零れる
その洞窟の前に辿り着いた時、男はようやく歩みを止めた。
唇から漏れる吐息が白い。洞窟から吹き付ける冷気に巻かれて散っていく。それは山肌を歩き詰めで火照った体にはちょうど良かったが、これから洞窟内に入るとあっては、立ち塞がる見えない障害の一つでしかなかった。
見上げる空には雲一つなかったが、午後の日差しを降り注ぐ太陽はいかにも弱々しく感じられた。二重三重に薄い幕で透かしたかのような頼りない光だ。
瞬間、呼びかけられたような気がして後ろへ振り返った。
背後に野山の草木も枯れ果てて、春が訪れるのをじっと堪え忍んでいる。
季節はまだ夏だというのに、まるで初冬のような有様だった。
誰もいるはずがないのはわかっていたが、確かに名を呼ばれるのを感じた。
マグナス――と。
その名は今や、祈りに違いなかった。故郷で自分を待っている者がいる。みんなが待っている。
男は防寒具の裾を締め直すと、洞窟に向かい合った。
男――マグナスは冷気の洞窟へとその一歩を踏み出した。
気象がおかしくなったのは半年ほど前のことだった。
雨が降り、雷が落ち、雪が舞った。暦の上では春を刻んでいるにも関わらず。
初夏に差し掛かっても異常気象は収まる気配を見せず、狩猟も農作も立ち行かないため、マグナスの住む村は進退窮まった。
そこで慣例に倣い、この地方の季候を統べる神に陳情することとなったのだが、不可侵の霊山に住まう神は気まぐれで、その神への使いは無理難題を押しつけられて命を落とす危険があった。いかなる要求にも耐え得る強靱な人格が望ましく、そして白羽の矢が立ったのがマグナスだった。
洞窟の奥から吹き荒ぶ風に体温と体力を奪われ、松明を持つ手や顔にはあかぎれが生じた。
凍える空気に精神が萎えそうになる。
マグナスは自分の頬を殴って、弱気を挫いた。自分一人が諦めれば、大勢の人間が犠牲になる。使命の重さを忘れるな。
それに――
頬の痛みが熱を帯び、じんわり広がったそれが口元に達する。
ただ一心に無事を祈ると言った幼馴染み。
あの熱い吐息、焼けそうな唇の感触を覚えている。震える肩の小ささがまた両手の中に残っている。
命に替えても、あの娘だけは救わなければならない。
不意に松明の赤ではない、白い明かりが行く先に見えた。
暗がりを抜けて白い明かりの下に出ると、洞窟の剥き出しだった岩肌とは打って変わった穏やかな気候の美しい園が広がっていた。
薄い色彩の庭園がどこまでも広がっている。洞窟の中だとは到底思えなかったが、さりとて山を通り抜けて外に出たとも考えにくかった。これが外界とは隔絶した神の住居なのだろうか。
光源はなく頭上や見渡す限り靄のようなものがかかっていて遠くを見据えることが出来ないが、それ自体が淡く発光していた。気が付けば通り抜けてきたはずの洞穴もなくなっていたが、ここが神の地であるなら何が起こっても不思議ではない。
マグナスは口を引き結んで庭園の中心へ向かった。ここが神の住まいなら、きっとそこにいるのだろうと確信して。
果たせるかなそこに神はいた。
無数の円柱に囲まれた丸い池の中程、その中空に弛緩した手足をたゆたわせて浮かんでいた。
伏せられた目が静かに開かれ、マグナスの姿を映した。
「……人の子よ、わらわに何用か」
誰何の言葉ではなかった。ここに来ることをあらかじめ知っていたのだろう。もしかしたら陳情の内容も既知であるのかも知れない。
もし本当に神なのだとしたら……
「恐れながら、御身がエーヴェか。もしこの地の神、季候を司る山の女王エーヴェであるなら、証して見せ給え」
マグナスの呼びかけに呼応して、ゆっくりと花開くように、中空に漂う体がこちらに向き直った。
薄衣を幾重にも重ねて羽織った女の姿だった。
「……わらわはわらわぞ」
女が気怠げに右手を差し出した。すると鏡のようだった湖面に細波が立ち、右手に指差された場所から拳大の水球が浮かび上がった。水球はふわふわと浮かんだ後、やにわに落下し、高々と水飛沫を上げた。その水飛沫に向けて女が白い息を吐くと、たちまち音を立てて凍りついた。
それは凍りついた水の王冠だった。女は王冠を身振りだけで手繰り寄せると、手元で弄んだ。
「人の子がわらわをなんと呼ぶかなど、わらわには関係のないこと」
言いながら、王冠を乗せた。
「その物言い、女王エーヴェに間違いない」
マグナスは女神を見上げた。腹を決めて言う。
「女神よ。如何なる御心かは御身ならぬ人の身にはわかりませぬ。しかし現に我らは苦しんでいるのです。御心が猛っているならばお鎮めくださいませ。我らが業に飽いたならば今一度お慈悲を、どうか……そのためならば、如何ようなことも致します。我が身全て差し上げる心積もりにございます」
それを聞き、女神の目がすっと細められた。その途端、マグナスの手にあった松明が暖色を失い、炎の形を残したまま凍りついた。慌てたマグナスはそれを取り落とした。
「……ならば」
言葉とともにエーヴェを中心とした風が巻き起こった。
風に触れた湖は氷に覆われ、円柱は砂の如く崩れて霧散し、一瞬間にして庭園は白銀に包まれた。
「――わらわの身を芯から焦がしてみせよ!」
強風が吹き荒れ、マグナスが首に巻いていたマフラーが煽られて飛んでいった。
吹雪が猛然とマグナスに吹き付け、その四肢を千切らんばかりに捻った。体温が急激に下がり、体が端々から凍りついていく。
マグナスは咄嗟に口を手で覆ったが、寒気が容赦なく口内へ押し入り、直接熱を奪って水分を凝結させた。細かく鋭い氷となった水分が食道や口中を傷つけ、マグナスは思わず止めた呼気を吐き出した。細氷とともに血が飛び散る。
徐々に動かなくなっていく体を自覚しながら、尚もマグナスは諦めなかった。
考えろ。
松明を凍りつかせるくらいだから、火種を作っている暇はない。かと言って、エーヴェのように温度を操ることも、炎を生み出すことも出来ない。
圧倒的な暴威の前で為す術がない。
(ここまでなのか……?)
腕を抱えながらマグナスが膝をつこうとした時、彼は不意に熱が体を過ぎるのを感じた。腕の中で感じた小さなぬくもり。故郷で待つ彼女。吐息の熱さ、唇の――
それは気の迷いだったのかも知れない。
死を目前にした足掻き。
膝をつこうとした体勢のまま、マグナスは一歩踏み出した。ほとんど感覚のない体を投げ出して、凍った湖に浮く女神に向かって走った。
「ご無礼!」
無我夢中で飛び上がった彼は、驚くエーヴェに真っ正面からしがみついた。
肩を掴み、顔を寄せ、形の良いの唇に己のそれを重ねた。心臓が今際の鼓動を打ち、体に残った最後の熱がエーヴェに伝わる。
数分が過ぎたか、あるいは一瞬のことであったか。
いつの間にか凪いだ庭園にマグナスは投げ出された。肩で息するエーヴェに張り飛ばされたのだ。
不遜な顔がなりを潜めた女王は、口元を押さえて狼狽えたように身を竦めている。そのまま二、三歩分も後退ったかと思うと、猛然と吹雪いた風とともに幻のようにかき消えた。
山の女王エーヴェは跡形もなくいなくなった。
体の熱を取り戻したマグナスが、わけのわからない様子で女王のいた場所までふらふらと近付いた。
持ち主を失った王冠がだけがそこには残されていた。マグナスが恐る恐る拾い上げると、王冠は自らが水であることを思い出したかのように突如溶け崩れ、手のひらから零れ落ちた。
そして雪解けの湖そのままに湖面に張った氷は割れ、当然のようにマグナスは水面に落ちた。
女神の計らいによるものか、マグナスが無事に村に帰り着くと、季候の異変は元に戻っていた。
見事に女神の試練を越えて、村の窮地を救ったマグナスは英雄として讃えられた。
ささやかだが穏やかな季節が過ぎる。
やがて、どこからともなく流れ着いた娘が、マグナスを巡って彼の幼馴染みと冷戦を繰り広げることになるが、それはまた別の話。
女神エーヴェの現し身であるその娘を、今はまだ誰も知らない。
『コールド・ブレス・ユー』・了
※大遅刻(大事なことなので二回言いました)
リアルタイムでやる気しなくて、気がついたら一週間経ってた的な。
最初はストレートの氷の神(女王)にしようかと思ったんだけど、『アナと雪の女王』がどうにも頭にちらついて、避けようとした結果なんだか「山の神」で「季候を司」って「主に吹雪かせる」ととっちらかった設定に。
似るのを恐れずにストレートに行けば良かった。
ちなみにアナ雪は未見。