使い途のなさそうな日常の一幕 ナージャ編
ボタンを押す前に、ナージャ・クニッペルは、手櫛で長い白金髪を直す。荷物を入れたトートバッグは肩にかけているからいいとしても、手に持つ小さな土鍋が少々邪魔になる。片手で底を持ち上げて空けた右手でなんとか触れる。
髪をいじりながら、自分の体を見下ろす。住人が顔見知りばかりのマンション内移動とはいえ、ルームウェアで来るのはどうかと考えて着替えたが、Tシャツの上にスウェットの上を着て、下はギャザースカートという格好はどうなのだろうか。なんとなく中途半端な気がしなくもない。先日まで非合法諜報員として潜入活動していた頃と比べれば、持ち物は増えたが、女性としてはかなり少ない服しか持っていない。限られた組み合わせを改めて考えると、ラフすぎるか気合入りすぎかに振り切れるような気がする。
万が一ということもあるので、風呂に入り、下着も綺麗ものを選んで着けている。しかしなにかを期待するのも間違いであろうし、期待してると思われるのも避けたい。
「……よしっ」
髪も服もこれ以上はどうしようもない。体裁を整えるのは諦めて、ナージャは小さく気合を入れて、壁のインターホンに手を伸ばす。
『へいよ……』
室内からの反応をカメラを見ながら待つと、さほど待つまでもなく、怠惰な青年の声がインターホンから返ってきた。ダルそうなのは普段からだとわかっているが、カメラ越しに彼女の顔を見たからではなかろうかと、改めて少し不安に思ってしまう。
「こんばんわー。すみませんが、ドア開けてもらえませんかー?」
そんな内心を出すことは決してしない。きっと彼には能天気に聞こえるだろう、いつも通りの明るいソプラノボイスを出す。
すると玄関までの移動と、ため息をついていると思える時間を置いて、電子錠とシリンダー錠が解除された。
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「なんか今日は大荷物だな……」
「こっちで仕上げたほうがいいかと思いまして、コレごと持ってきましたから」
総合生活支援部関係者が住むマンションの二〇一号室、堤十路宅の玄関で、ナージャはサンダルを脱ぎながら明るく土鍋を示す。
夜間でしかも男の部屋だろうと気しない。最初は勇気が必要だったけれども、ほぼ毎晩のように来ていれば慣れてしまった。
一方でまだ慣れない。いつもインターホンを押す前に、呼吸と身だしなみを確かめて正す時間を必要としてしまう。
部屋に入るまでが境なのだ。靴を脱げばあとは勝手知ったるなんとやら。普段から悪い目つきを呆れの半眼にする十路を置き、スタスタと台所に入る。
十路の部屋に来る理由は一応、誰でも納得できるものであるはず。彼もナージャも高等部三年生――受験生だ。彼女は提げたバッグに勉強用具を詰めて、一緒に勉強するために入る。
「ということで、本日の夜食は雑炊でーす。晩ご飯はクレソンたっぷりで季節はずれの水炊きにしてみましたので、そのスープを利用しましたー」
けれどもその際、夜食を作るのも恒例行事になっている。というか、ナージャが恒例にしてしまっていた。
ダイニングテーブルにトートバッグ投げ出し、まずは土鍋を火にかけてから、冷蔵庫を開く。他人の家なのに、ほとんど毎日来ているのだから、中身は把握している。賞味期限もおおよそわかる。
だからパックが増えているので使っても大丈夫そうな卵と、しなびかけている残りのネギ、中途半端に残っているカマボコを取り出す。
そんな行動になんだか文句がありそうな、けれども口をつくんで半眼を向けている十路に、ナージャはトートバッグに入れていたエプロンを身に着けながら、オーバー気味に語りかける。
「まさか、裸エプロンとかご所望ですか!?」
「誰が言うか」
「いやぁ~、あれ勘弁してくださいね? 油が跳ねたり煮立ったりすると、本気で危ないですから」
「だから言わん。というか、体験済みなのかよ」
あれは実用性を求めてはならない恰好だ。いやある意味ではこの上ないほど実用性を満たしているが。主に性的に。だが漢の浪漫を満足させるメリットよりも、露出部分に熱傷を受けるデメリットが大きいため、調理の際はちゃんと衣類を着用するか、過熱を必要としない料理を選択しないとならない。
本気で頼まれたら? その時に考えよう。求められるのは食欲の飢えを満たすことではないのだから。
「それにしても、真夏に鍋なんてよく食うな……」
そのまま作業を見守るつもりなのか、彼はジャージ下とタンクトップの十路は腕を組んで、ダイニングキッチンの壁に背中を預ける。
料理と呼べるほどのことはしない。まだ沸き立っていない土鍋に、手早くカマボコを入れ、頃合を見て溶き卵を入れ、みじん切りのネギを散らせば終わる。
「ちなみに、十路くんの晩ご飯は?」
手早く包丁でネギを刻みながらナージャが問うと、背中に怠惰な声が返ってきた。
「素麺で流し込んだ」
「それよくないですよー? 暑いからって冷たいものばかり食べてると、胃の働きが弱くなりますし、熱いものも食べたほうがいいですよー? しかもどうせお素麺だけ大量に食べたんじゃないですか? 栄養偏りますよ?」
「…………」
否定がないということは、図星なのだろう。そういうズボラさは、やはり男だと感じてしまう。
十路は基本的に無頓着だ。部屋も衣服も清潔ではあるが、これは自衛隊宿舎での規則正しい生活に起因するところが大きいだろう。コンビニ弁当ばかりというような、若い男にありがちな食生活ではなくても、どんぶり飯になにかかけて掻き込んで食事を済ますようなことは、割とよくやっている様子がある。
だからこそ、ナージャが入り込む余地もある。
「ナージャもそういうのを気にするなら、そもそもカロリー気にしたほうがよくないか? 晩飯も夜食も食べてたら、そのうち太るぞ?」
「ぐはぁっ!?」
否定の代わりが数秒遅れで背後から突き刺さった。平然と放たれた女性への禁句に胸を押さえ、ナージャがよろめいた。ちゃんと包丁はまな板の上に置いた後なので、単なるオーバーリアクションでしかない。
「うぐぅ……実際、支援部に入部してから、ハードな訓練やってませんから、二の腕とかフニフニ感が増した気が……」
そうは言いつつも『夜食を食べない』という選択肢はない。卵二個を器に割ってかき混ぜる。一個ではない。二個を。二人分を。
「俺たちに近づくために、一年以上前から潜入して、学校に通ってたんだろう? その間もハードな訓練してたのか?」
「いえいえ、それ以前でして。『役立たず』に払う余計な税金はないとばかりに、ギリギリの経費しか支給されませんでしたからね……消費カロリーよりも摂取カロリーを心配しないといけませんでしたから……」
「ほんと、左遷だったんな……」
料理は好きだし、自信がある。支援部に入部する前は料理研究部に所属し、ずっと毎日自作の弁当持参で登校している。
というか、好きにならざるをえなかった。家庭環境が悪く、餓えを経験しているから。そして日本に来てからは、実務的なものとして。
安く、腹いっぱいになる献立を探して、工夫し続けたから、それなりには自信がある。
「その割にナージャがサバイバルしてたとか、そういう話は聞いた記憶ないけどな?」
「まだ支援部は存在してなかった去年は、周囲に溶け込むためにも、短期アルバイト繰り返してました。飲食業のお店には、賄いとか、従業員価格とか、色々お世話になりましたよ」
完全に溶き卵が固まる前に、土鍋は火から下ろされる。トレイに茶碗とレンゲ、鍋敷きと土鍋を置いて、リビングに移動をする。すると十路が先に、テーブルに広げていた教科書ノートを片付けて、場を空けた。
「というか、『お金がなければ即サバイバル』という発想をする辺りが十路くんですね」
座ったナージャが茶碗に雑炊をよそい、エプロンを外すのを待ってから、十路もレンゲを手に取る。
「え? 基本だろ?」
「いやぁ、わたしも軍事訓練受けてますけど、結局都市部で活動する非合法諜報員になったので、十路くんみたいに野趣あふれるサバイバル術はあまり……」
「じゃあ、都市型のサバイバル術があるのか?」
「食料品はまとめ買い。個人のお店でオマケしてもらう。調理は一週間分まとめて作って冷凍。ヨーグルトは牛乳を足して無限増殖。カイワレとネギは自宅で栽培。パンやおやつは小麦粉から自作。歯磨き粉とシャンプーは出なくなってからが本番。基本はこんなところですかね?」
「……絶対になにか違う」
「十路く~ん? 主婦業ナメてませんか?」
「それを語るのは、ナージャが全世界の諜報機関員に謝ってからにしような?」
都市型サバイバル術となると『炊き出しのルール』『ダンボールと新聞紙の保温性』『ブルーシート活用法』『先輩ホームレスの縄張り分布』になってしまうのだが、それはさておき。
茶碗一杯の雑炊など、話しながら食べても、胃袋に収めるのにさして時間はかからない。十路は早飯・早●・早風呂が必須技術だった元自衛官で、ナージャは単純に量が少なくしていた。
やはり『太るぞ』の一言が効いた。
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洗い物も大した時間はかからない。布巾で水気を拭った食器を棚に収めてリビングに戻ると、テーブルを挟んで十路の向かいに座り、ナージャも教科書とルーズリーフを広げる。
ふたりは高校三年生、受験生という立場だ。有事には警察・消防・自衛隊といった執行機関に協力する、超法規的準軍事組織に所属するとはいえ、社会的にはただの学生だ。日中に協力要請があった時、授業は公休扱いになるが、成績まで保障してくれるわけではない。
だから夜にはこうして、十路の部屋で勉強するのが、ナージャ支援部入部以来の慣例になっている。
「そういえば十路くん。小論文の課題、明日提出でしたっけ?」
「確かそのはず。とっとと書いて提出したから、俺のは写せないぞ」
「いや、わたしももう書き終わってますけど。というか小論文は写せないですって」
成績はふたりとも悪くない。上中下で単純に分ければ、上位陣に食い込む。授業態度も良好であり、教師からしてみれば、あまり手がかからない学生たちだろう。
理数系に関しては、超科学で物理法則を操作する《魔法使い》なのだから、既に知識がある内容もあり、外れても基礎があるから応用もできる。
なによりも、陸上自衛隊やロシア軍の育成機関にいた頃の座学は、ダイレクトに命に結びつく内容なのだったため、普通の学生とは授業への打ち込みも違う。
《魔法使い》として生きてきた彼女たちにとって、普通の学生生活は、尊いものだと知っている。だから無為に時間を過ごすことができない。ただ真剣に取り組んでいるというより、強迫観念めいたものがある。
「英語の宿題はやりました?」
「え? そんなのあったか?」
「今日出ましたよ? テキスト二ページ訳すだけですけど。最後のほうでポソッと言ってましたから、チャイムにまぎれて聞こえなかったかもしれないですけど」
「あの教師は……相変わらず意地悪いなぁ。明日も英語あるのに」
「早速チェックされますね。だから写させてもらおうと思ったのに……」
「それを言うなら、俺が写したい。ナージャなら余裕だろ?」
「外国イコール英語圏って考えるの、日本人の悪いクセですよ? 十路くんのほうがあちこち海外に行ってるから、英語得意でしょう?」
「俺が知ってるのって、やたら『Fuck』を連発するスラング英語なんだが」
ちなみにふたりとも、外国語はあまり成績がよくない。日常会話は難なくこなせるレベルであるのだが、いわゆる受験英語に馴染みがないため、苦労している。
「とっとと終わらせよう」
「ですね。一ページずつ分担しますか」
小さくため息をつき、十路は開いていた参考書を閉じて学生鞄を引き寄せ、ナージャはトートバッグを漁る。
「「……あれ?」」
そして怪訝な声を重ねた。
「英語のテキストがない……」
「俺もない……」
「参考書入れただけで、あとは鞄の中身移し変えただけのはずですけどね……?」
「俺も学校から帰って、そのままなんだが……」
ナージャは十路と顔を見合わせる。英語の授業では確かに使った。時間がある時は部室でも勉強するが、今日は依頼が入って動いていたので出していない。
ということは。
「ふたりして学校に忘れたってことだな……」
「ですね……」
仕方ないと、十路はベッド下から、ウェストポーチを取り出した。
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「んふふ~、お出かけデートぉ~」
「ウザい。くっつくな」
「夜の校舎でふたりっきりですよ? なにか来るものありません?」
「ねーよ」
学院までの坂道を、十路の腕を抱えて並んで歩く。さすがに大勢の人前ではやらないが、ふたりになった時にはふざけてよくやるので、十路も冷淡だった。共に筋肉質とはいえ性差で己のものとは違う、薄手のジャケットに包まれた腕は、勘違いしようないほど乳房に触れているのだが。
最初の頃は十路も、慌てて腕を引き抜こうとしていたのだが、今はもうリアクションがない。諦めと白けが入り混じった視線を向けるだけで、好きにさせてしまっている。自由な左手でマグライトを持ち、淡々と坂道を登っていく。
(わたしって、そんなに魅力ないですかね……?)
だから、不安にもなる。
同じ部に完璧超人(性格を除く)がいるので、さすがに絶対の自信は持てないが、『それなり』ではあると自負している。
まだ支援部が正式に発足する前、修交館学院に派遣され、高等部から入学したナージャは、それなりに注目されたものだ。かなり白に近い金髪に、紫色の瞳という、黒一色な日本人が見る外国人の中でも、一層際立つ神秘的な容貌を持つ。
神秘的云々は、トリックスターな彼女の性格がかなり台無しにした気もしなくもないが。そこは親しみやすいという評価に変わったと考える。
なによりも胸。年頃の少女たちからは羨望と怨嗟の視線を向けられ、年頃の少年たちからは湧き上がる情念の篭った視線を向けられる。
ナージャはそれなりにモテるのだ。十路と共通の友人である、高遠和真とワンセット扱いされるようになってからは、その手のイベントは減ったが。いや彼に口説かれても冷たくあしらっているので、まだ勇者はいるため、総量としては変わらない。ただその時の有様を見て『高遠和真と付き合っている』という誤解から『ナージャ・クニッペルは男を振るとき地獄突きをかます』という誤解に変わっただけの話だ。
告白まではされずとも、彼女が近寄って話しかけるだけで、大抵の男子学生は好意的になる。
しかし十路は、例外的反応をする。
(やっぱり身長……?)
様々な要因でヨーロッパ圏の平均身長は、日本に比べて高いが、ロシアはそうでもない。だから彼女の身長は、ロシア国内でも長身の部類に入る。
日本人男性平均身長の十路と比べれば、多少彼が勝っているとはいえ、顔の位置はほとんど変わらない。
男から見れば、プライドがくすぐられても、不思議ないかもしれない。
(ま、そういう問題じゃないんでしょうけど……)
そんな自問に意味がないことは、ナージャは既に知っている。これでも一応はロシア対外情報局の非合法諜報員だ。彼が修交館学院に転入したことで、彼の経歴は他の諜報員たちが徹底的に調べ上げた。
ナージャの知る情報は、何層にもフィルターがかかったものだから、彼の考えが正確にわかるわけではない。ただ、それでもおおよそは想像ができる。
彼はまだ、過去を吹っ切れていない。吹っ切れるわけがない、とも思うが。
少なくとも彼の口から、『彼女』の話を聞いたことはないので、ナージャは十路の心に踏み込めない。悪ふざけの割合が強い、悪友以上恋人未満の関係から進めるには、気が咎めてしまう。
「ところでナージャ」
そんなことを考えていたら、ウェストポーチから懐中電灯を取り出しながら、十路が口を開いた。
「大丈夫なのか?」
「ほえ? なにがです?」
「だって今から行くの、夜の学校だぞ?」
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夜の修交館学院は、原則的に進入禁止になる。大学部以上にもなれば、研究室に泊り込む学生もいるため、厳密なものではないが、高等部以下は校則に明記されている。
理由は、環境が悪いから。
「…………」
「ナージャ……冗談抜きに大丈夫か?」
神戸市街地からは離れ、道一本しかない山の中に建っているのだ。交通量は朝夕しかない山道には、常夜灯が少ない。
神戸の夜景は観光資源になるほどだ。逆を言えば夜景が見える六甲山系は真っ暗で、街の明かりが届かない。
「は、ははは、はは、これ、くらい、なんて、こと、ない、です、ヨ?」
「うん。わかった。全然大丈夫じゃないな」
そしてナージャは、暗所恐怖症を持っている。
だから尋常ではない冷や汗をかき、足が震えている。抱きかかえている十路の腕には、かなりの力が入っている。暗い中ではよく見えないだろうが、血の気が引いている自覚もある。
人は危機回避能力として、本能的に暗闇を恐れるが、ナージャの場合は度を越している。過去の経験を思い出し、恐怖で体がすくみ、過剰な反応をしてしまう。
「俺が教科書取ってくるから――」
「置いてけぼりにしないでくださいぃぃぃぃ!」
辛うじて明るい校門前で、十路に腕を引き抜かれたので、かなり必死になって再び掴む。
きっと彼に任せてしまうのが、一番効率的だろう。しかしその間、ナージャがこの場にひとりきりにされてしまう。
いくら明るいとはいえ、常夜灯ひとつの明かりで、光が届かない場所は真っ暗だ。そんな場所で待つなど耐えられない。先に戻るなど論外だ。
普段ならば時間や場所、明るさも考えて行動するのだが、今日はその意識が全くなかった。
「だったら《杖》と接続したらどうだ? 脳で『視て』れば、多少はマシだろ」
「……!」
十路に言われ、『その手があったか』と、慌ててスカートをたくし上げる。男の目の前で、かなり際どいところまで捲り上げたが、そんなことを気にする余裕もなかった。
左太もものに装着したホルスター、そこに入れて持ち歩いている《魔法使いの杖》を取り出し、生体コンピュータに接続する。すると脳内センサーが起動し、目を閉じていても周囲がわかるようになる。
暗闇が怖いのは、なにがあるかが見通せないから。可視光線による光学情報は変化なくとも、他の手段で暗闇の先がわかるなら、悪い想像などしない。大体、これまで夜中にも部活動を行っても、彼女は動けていた。
「それじゃあ、行くぞ」
「待ってくださいよぉ~!」
ただし、マシになったにすぎない。目に映るのが、暗闇であることに変わりはない。そして人間はほとんど視覚情報に頼っているのだから。
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元非公式特殊隊員と、元非合法諜報員にとって、日常生活範囲のセキリュティなど障害にならない。良い子は真似してはいけない方法で解錠し、高等部校舎に侵入したふたりは、足音を立てることなくリノリウムの床を歩く。
照明をつけることなく、階段を上る最中、十路の腕にすがり付いていたナージャは、異変を感じた。
「あの……十路くん。大変言いにくいんですが……」
「言われなきゃわからん」
「今、わたしはピンチです……」
「なにが? ロシア人は前置き抜きに本題から入るもんだろ? ハッキリ言え」
素っ気ない返事に、若干の落胆と焦りが浮かぶ。彼がこういう人間であるのは知っていて、言葉なく気持ちを伝えるなんて無理なのは当然なのだが、少しくらい察する努力をしてくれてもいいのではないかと思ってしまう。
「おトイレ行きたいです……」
先ほどまで意識しなかったのに、突如として尿意が芽生えてしまった。一度意識してしまえばもう駄目だ。それすら考えられなくなってしまう。
そういうことだが、ナージャが言いたいのはその先だ。
「行ってこい。俺はその間に教科書取ってくるから」
「十路くんもついて来てって言ってるんですよぉ!」
意は全然伝わっていなかった。階段を上り始める十路に、ナージャは涙目ですがりつく。
「知らないですかぁ!? 第二次世界大戦中に空襲で逃げ惑って学校のトイレに隠れて焼け死んだ花子さんの霊が出てくるんですよ!?」
「この学校、創立一〇年経ってないぞ」
「便器の中から手が伸びてくるんですよ!?」
「水洗式の曲がりくねった排水トラップをどうやって?」
「夜にトイレ入ると加牟波理入道が生首を落とすなんて日本の常識でしょう!?」
「日本人でも初耳だ」
迷信深いロシア人を引き上げるように腕に力を込めて、十路は階段を上っていく。いや、彼女とて階段に留まりたいわけではないのだが。一階でも二階でもない中途半端な場所にいたところで、事態はなにも改善されないのだから。だが冷淡な十路の思い通りに行動されるのは困ると、反抗心から踏ん張ってしまう。
ナージャの抵抗虚しく、彼らが普段使っている教室のある、二階まで上ってしまった。
階段を背にして、教室があるのは左手、トイレがあるのは右手だ。
「子供じゃないんだから、さっさと行ってこい。これ貸してやるから」
「う~……」
すがり付いていた十路の腕は引き抜かれた。代わりに懐中電灯が押し付けられた。
「地雷とか、毒のある植物とか、ヘビがいるわけでもないだろうに……」
サバイバル経験豊富な十路の常識からすれば、ただ暗いだけのトイレだろうが、ナージャにとってはそうではない。いや、理屈では安全だとわかっているが、心がそう納得してくれない。
しかし彼は振り返ることなく教室に向かったので、泣く泣くナージャは、暗い廊下をひとりで進み、暗い女子トイレへ向かった。膀胱と括約筋が割とピンチだったので、是が非でも十路を連行する選択は諦めた。
△▼△▼△▼△▼
「うぅ~……!」
個室に入り、洋式便座に座って、ナージャは半泣きになった。こういう時に限って、用事をさっさと終わらせることができない。先ほどまでの尿意はどこへ行ったのかと言いたくなる。だが立つことは許されない。我慢したまま暗闇で行動していれば、なにかの拍子におチビリになる自信がある。
明るい時間なら白基調の清潔な場所なのだが、明かりもつけない夜の時間では、不気味なことこの上ない場所だ。普段ならば意識もしない、いや公衆便所に比べたら若干広いとも言えるだろう個室が、狭く圧迫感を覚えてしまう。
(…………?)
不意に足音を聞こえた。恐怖心から感覚が研ぎ澄まされたのか、夜間で静かとはいえ普段なら聞き流すであろう、わずかな物音を耳が捉えた。
一般人には区別つかないだろうが、訓練を受けたナージャには、十路の足音ではないことがわかった。生体コンピュータで解析すれば、彼が履く靴の底、間隔、床とのこすれ方が異なっている。もっと背が低く、体重が軽い人物と思われた。
(え……?)
音が消えた。
代わりに、電磁ノイズを感知した。
(そういえば、幽霊が出る時、よく電磁障害があるって……!)
そんな話を思い出した。
変化はそれに留まらない。天井がうっすらと明るくなった。青白い、燐光を思わせる淡い発光体が、トイレの中に入ってきた。
(まさか、人魂……!?)
見える部分の推測では、懐中電灯とは異なる、全体で発光する謎の物体が移動している。
ナージャの《魔法使いの杖》は、時空間制御という特異な能力を使うために、機能特化された上に、小型だ。他部員が持つ汎用型の中・大型装備と比べれば、総合的な性能は低い。
だから発光体の正体が、推測できなかった。
「――!?」
軽くトイレのドアがノックされた。思わず出てきそうになった悲鳴を、ナージャは手で押さえこむ。
(誰……!? いえ、何……!?)
十路のはずはない。こういうつまらないイタズラを仕掛ける性格ではないし、断片的な反応からして異なる。
なによりも、足の影が見えない。トイレの仕切り上下に隙間があるのは、伊達でも手抜きでもなく、誰か入ってきたかわかるように、わざと開けているのだ。なのにわからない。
発光物体は誰かが持っているのではなく、宙を浮かんでいるとしか思えなかった。
その事実を認識し、ナージャが改めて恐怖に震えていると、再度扉が叩かれた。今度はノックなどという回数ではなく、軽い力でも乱打された。
「~~~~~~!!」
いつの間にか、《魔法使いの杖》も懐中電灯も、床に落としてしまった。その音で相手に存在を気づかれて当然なのに、そんな簡単なことにもナージャは気づかない。両手で口を押さえて、恐怖の悲鳴を飲み込んで、必死に息を潜めようとした。
どれほどの時間だったのか。実時間はさほどでもないはずだが、ナージャには相当な長時間に思えた。
勝手に溢れてくる涙をボロボロこぼしながら耐えていると、やがて扉を叩く音が止み、謎の青白い光が消え、トイレには闇と静寂が戻った。
謎の存在は去ってしまったのか。もちろん完全な安心はできないが、ナージャは口を押さえていた手を外して、そっと安堵の息を洩らした。
「……?」
その時、ナージャはなにかを感じた。
しかも反射的に見上げてしまった。
扉と天井の間に空いた隙間から、個室を覗きこんでいるナニカがいた。闇の中では子供の顔としか判断できない、ナニカが見下ろしていた。
しかも、ナージャと目が合った。
今度こそ我慢できず、溢れ出た。
「いやああああぁぁぁぁっっ!?」
『どうした!!』
悲鳴と同時にナニカは引っ込んだ。更に十路の声と共に、トイレ内が明るくなった。校舎に忍び込んでいるから避けていたが、悲鳴で尋常ではない状況と判断し、照明をつけたか。
「……なにやってる?」
扉の向こうから届く十路の声は、拍子抜けしたような色を帯びていた。
「自分のセリフであります。なぜ十路とミス・ナジェージダが、ここにいるでありますか?」
存在してはいけないはずの、少女の声も聞こえた。特徴的な口調による、聞き覚えのあるアルトボイスだ。
「ナージャ、開けていいか?」
十路の言葉にナージャは反応できなかった。だからややあって、扉の鍵は外から開けられた。
ゆっくりと扉が開かれ、十路が顔を覗かせた。その手には教科書と一緒に、鍵を開けた工具が握られていた。
その背後で、少女が浮かんでいた。
支援部に所属する小学生・野依崎雫だ。彼女はドレスのような装着型《魔法使いの杖》から《魔法回路》を発生させ、重力を制御して落下速度を軽減し、床に降り立つ。
「面倒なことに、学校に住んでいるのと引き換えに、警備員の真似事もさせられてるのであります……校舎への不法侵入者を感知したので、仕方なく確認しに来てみれば」
「俺たちがいた、と。悪かったな。教科書忘れて、取りに来たんだ」
野依崎と十路の会話で、ようやく事態が理解できた。理由は知らないが、野依崎は《魔法》で浮いて移動していたのだろう。青白い光は《魔法回路》のものに違いない。
窓から入るわずかな明るさ、しかも仕切りの上部から顔を覗かせた状態で、表情に乏しい野依崎の顔を見ると、恐怖以外のなにものでもなかった。いや先入観あってのことだと思いたいが――
「支援部が世間で知られるようになって、自分たちを調べようとする諜報員やジャナーリストが、隠しカメラや盗聴器を仕掛けようと、たまに潜入してくるのであります。大抵の場合、自分が幽霊っぽく出現すれば、ビビって逃走するでありますがね」
否。当人が確信犯とバラした。
「…………あ」
理解が及ぶと、いろいろと緩んだ。腰が抜けたのが自分でわかった。
あと蛇口が。涙腺が緩んでるのは今更だから、下も。
十路の前でパンツを下ろしていることはどうでもよく、はいているのがスカートで、便座に座った状態だったことにただ安堵した。
△▼△▼△▼△▼
十路に背負われて、帰路につくことになった。
「……十路くん。わたし、迷惑ですか?」
「いきなりだな?」
さすがに今夜のことには、ナージャもヘコんだ。腰を抜かして背負われているのも当然、色々と彼に押し付けてしまったことも。いや介護的な具体的にはシモの後処理等々は同性の野依崎の手によるものだが。
「別に迷惑じゃない」
揺すられた。立ち止まらぬまま背負いなおされた。
身長は大差ない。脂肪と比べれば筋肉が重いとはいえ、数値としてはそう大きなものではない。
男の体と比べれば華奢な印象があるとはいえ、体重もさほど変わらないのではないだろうかと、ナージャも不本意ながら認めざるをえない。
しかし十路は背負って運ぶ。さすがに軽々とはいかないのか、たびたび背を揺すってナージャの位置を直すが、決して手放そうとはしない。足取りや声から苦しさは感じられない。
「なんやかんやで助かってるしな……食うもの持ってきてくれるのもありがたいし」
同世代のひとり暮らしを考えれば、十路の生活はキチンとしているほうだろう。だがやはり男であるため、ナージャから見れば雑だ。
自炊はするのだが、品数よりも量重視。食事時に押しかけることはあまりないが、そういう食事であろうことは、冷蔵庫の中身で推測がつく。
「あと、やっぱり学校だな。俺はどうしても浮くけど、それなりにクラス内でやっていけてるのは、ナージャのお陰ってのは間違いなくあるし」
転入当初から、十路は無愛想な性格と無気力感を丸出しだ。取り繕うこともしないというか、できない。
十路としては、普通の学生との距離感に迷っていただけなのだが、放置しておけば寂しい学生生活を送るであろうことは、傍で見ていてわかった。
だからナージャと、もうひとりの共通の友人と一緒になり、過度なほどのスキンシップを取った。それで他の人間も、なんとなく十路が無愛想でも話しかければ返す、無害な存在であると知り、クラス内でそれなりの交流がある。
彼が普通の学生生活を送るのに、ナージャの存在は助けとなっている。彼女自身はまだ非合法諜報員だった時分、情報収集をやりやすいよう
ただし褒めると頭に乗るので、上げて落とすことも忘れない。
「ウザいとも思うけどな」
「その言葉が余計です!」
気まぐれなネコ型人間の割に、自己主張激しい構ってちゃん。テンションが高く、人の話を聞かず、マイペースに変なことをやりたがるトラブルメーカー。
そういった人間は大抵、無視したくてもできない特殊な存在感を放つ。だからウザい。
しかも堤十路は昨今のサブカルチャーでありがちな主人公ではない。なんとなーくヒロインに惚れられて、なんとなーくワガママも暴力も許し、なんとなーくズルズルの関係を続けるような、誰も得しないヘタレとは違う。言ったところでヘコたれない相手ならば尚のこと、イラッとしたら傷つけることを頓着せずにハッキリ言う。
「こうなれば、ウザカワイイを目指しますか……」
「心配するな。俺の中でナージャは、既にその領域にカテゴライズされてる」
「カワイイです? わたし、カワイイです?」
「そういうところがウザい」
豊かな胸を押しつけてみてはいるが、彼は素っ気ない。
そんなことは今更で、彼女も知っていることだが。
まぁ、本気になられたら、今度は彼女がうろたえるだろう。
今はまだこんな具合でもよかろうと、ナージャは十路のうなじに鼻先を埋めた。




