祭囃子(下)
太陽の姿は西の山々に隠れ、空は夜星の輝く場となっていた。祭の光もそれに伴う人の波も相変わらずで、祭囃子が響き、人々はその雰囲気の中にいる。下駄がなる音や談笑の声が、音楽や喧騒と共にあり、温かみのある旋律を奏でる。この一夜の出来事はそれ自体が、この町に住む人々にとって特別なものだった。
彼女たちにしてもそれは同様だった。小学校以来、楽しむことがなかった祭にて、彼女たちも時を忘れ楽しんでいた。
かき氷。とうもろこし。りんご飴。遊び以外の屋台も堪能し、ある程度の出店を回った彼女らは、落ち着く場所を探す。
結局そこは、祭の会場から少し離れた場所になった。人通りのまばらになった道沿いのベンチにて、彼女たちは腰を下ろす。
「あー、本当に久しぶりだね、こーやって遊ぶの」
「そうだね」
子どものように笑う菖蒲と、少し落ち着いた表情で話す楓の姿がそこにはあった。
「大人になったらさー、仕事でバラバラになっちゃうし…。あ、でも、それより前からかー」
楓はそんな言葉に苦笑いする。
「中学は同じだったでしょ?」
その言葉を聞いて、少し困ったように菖蒲は笑い、楓の顔を見た。
「中学なんて遊んだって思い出ないよー。授業や実習の経験ばっかり」
「それもそうだね」
それは楓も忘れてはいない。むしろ忘れようとしても忘れられない記憶であるのは、彼女ら二人の共通の事であった。
「そういえばさ、楓ちゃん」
「何?」
「こーやってると、夕顔のこと思い出さない?」
夕顔。その名前に楓は何も答えなかった。涼しげな眼で、祭の光を眺めていた。
「あの子どうしてるかなー。あたしたちいつもいっしょだったじゃない、夕顔と」
「そうね」
微笑し、楓は答えた。
「連絡とか取ってる?」
「いや、全然」
「…実はあたしも」
そう返答する菖蒲の顔にも微笑が浮かんでいた。
「また3人でこーやって遊びたいねー」
「そうね」
笛と太鼓の音で彩られた祭囃子が彼女らの間に入ってくるように鳴り響く。2人はそれを聞き入るわけではなく、少し遠くにある祭の光を注視するわけでもなく、ただぼんやりと佇んでいた。
会話が止まり心が向けられるものがなくなった楓の心に不意に入ってきたのは、夜闇に混じった冷え切った感情だった。それは祭が楽しくないからではない。菖蒲といるのが嫌だからではない。だからといって彼女自身の心象に問題があるわけですらなかった。それをもたらしたのは、どうしようもない第三者の外部の干渉だった。この町に来る前にあった、ある事柄からだった。
本来、彼女はそれを考えなくてはならなかった。しかし彼女の視線の先には祭りの光と音がある。彼女にとって非常に奇妙な感覚だった。風邪の中で暖かな夢を見ているような感覚が彼女を取り巻き始めていた。
そんな刹那
「あ」
思い出したように菖蒲が声を出す。菖蒲の視線は左腕の腕時計に向かっていた。目をしばたたかせ、楓の視線が菖蒲へと自然に向く。
「あともう少しで花火の時間じゃん!」
花火、と言われて
「あぁ」
と気の抜けた声を出す。そういえばこの祭には花火の打ち上げもあるんたったな、と久しく忘れていた思い出を掘り出すように思った。
「もうそんな時間か」
菖蒲はそんな楓に対して提案を投げかける。
「あそこ行こうよ」
「あそこ?」
「…覚えてないの?小学生のころ花火見るとき一緒に行った…」
「あぁ、西の展望台」
菖蒲の目元が少しだけ輝いた。楓がその場所を覚えていることに安心したかのようだった。一方で楓の視線は祭の光に向けられている。
「あそこなら良く見えるよ」
「まだあったのかあそこ」
その展望台は無人公園の一種だった。住宅街から離れた西の山にあるせいか利用者も少ないようで、彼女らが中学を卒業する頃には黄と黒のロープまで張られている始末だった。
「何故か、ね。何時まで経っても整理工事しないのよ。うちの市もお金ないのかねー」
「そうだろうね」
軽口を叩きながら、彼女たちは立ち上がった。花火の時間までに展望台に向かうためにはそれなりに急がなくてはならない。それをお互いに察したのか、それとも祭の高揚感か、少し駆け気味の弾んだ足取りで、彼女たちは祭の会場から離れていった。
「あー、ついたついた」
「そこまで遠くなかったな」
彼女らがこの西の展望台にたどり着くまで、そこまでの時間は掛からなかった。花火はまだあがっていない。間に合ったことに安堵しつつ、菖蒲は背を伸ばし、楓はその場所をゆったりと眺めた。太陽光パネルが電源となった西の展望台の電灯は健在なのも幸いした。目印にしやすい上に、夜闇に建造物や石製の椅子などが紛れることがなかった。
楓の記憶のそれと、この空間は何も変わっていなかった。立ち入り禁止のロープを越えた先は、小学生の頃3人でよく来た場所そのままだった。
確かに管理されていないため、草は伸び、アスファルトも割れている場所もある。しかしその建造物自体はそこまで変わっていないことに、彼女は懐かしさを覚えた。彼女は18にもなり、15のときから故郷を離れ、様々なことを忘れていた。一方、この場所の記憶だけは鮮明で、それは彼女にとっても嬉しいことだった。
「意外だよね、小学生のころはこの坂登るだけで結構しんどかったのに」
「それだけ大人になったんだろうな、私たち」
展望台の手すりに腕を落とし、体重を任せながら彼女らは話す。展望台の手すりのペンキは剥げ落ちていたものの、2人ともその様子を気にすることはなかった。
「そうだね」
「うん」
お互いに同意しあうと、沈黙が訪れる。バッタと蝉の声が、夏の夜に響いている。先ほどまで彼女たちがいた人の熱気が嘘のように、この場所には静けさしかなかった。
「ねぇ」
菖蒲が話しかける。その声は先ほどのはしゃいでいた彼女とはかけ離れた熱のなさだった。
「そろそろ話してもいいんじゃない?」
そう話しかける菖蒲の視線は、展望台からの夜景に注がれていた。
「何で帰ってきたの」
続けて出る言葉も、同様に感情のない声だった。意図的に押し殺すというより、本来あるべくしてある冷え切った声。そんな声を彼女は発していた。
「聞きたいのはこちらもだ」
少し喉にひっかかるような物言いで楓は返す。そして
「何故裏切った」
より一層低い声で、楓は続けた。
「やっぱり、そうだったのね」
顔を低くし、腕に口元を埋めるようにして、菖蒲は呟いた。
僅かな沈黙の後、楓は話し始める。
「党の第2理事会で、お前の処分が決定された。理由は党への背信行為。具体的には2名の同志を殺害、6名の同志を重症を負わせたこと。そして秘匿資本72号の奪取、および内密情報であるコ-E09、コ-R01の流出の疑い」
その声は淡々としていた。原稿を読むような、伝えることしか考えていない事務的な発音や抑揚だった。一方で、彼女の眼は菖蒲を向くことなく、彼女と同じように、展望台から見える光景のみを捉えていた。
「同調者であるもう一方の容疑者は抵抗を企てたため、やむを得ず現場は処分を決定した。お前はもう1人だ。逃げ場はもうない」
彼女がそう言い終わると、菖蒲は何も言わなかった。何も言う必要がない様子でもあった。
楓も同じ立場だったらそうしただろう、と思っている。そして菖蒲が次に来るべき言葉を言うか、それとも言わないか考えていることさえも。その言葉は彼女がこの町に来るまでに菖蒲から出ることが予想できた言葉であり、できれば確認して欲しくない事柄だった。任務に従属する人間としては不甲斐ないことは何度も理解しようと楓は努めてきた。しかしそれは道理や誇りや使命感を超えて、どうしようもなく抗いがたいものだった。
楓は決して緊張している訳ではないはずだった。また、感傷的になったわけでもない。だが妙な胸のつかえが楓の中に広がり始めていた。何か奇妙に様々な気味の悪い色がうずめいているような感覚だった。
そんな感覚を閉じ込めようとしていたときだった。
「わたしの相棒を処分したのは?」
菖蒲は、楓が予期していた言葉を紡いだ。その眼はもう夜景には向けられていなかった。暗闇の中、楓へと一直線に鏡のような瞳が向けられていた。あぁ、やはり聞いてしまうのか、と楓は思い、
「私だ」
視線と共に、言葉を菖蒲に向けた。
「そう、夕顔を」
夕顔。この名を聞いた一瞬、彼女脳内に映ったのは、頭から血を流し白目を剥き倒れている、ロングヘアーの白衣の反逆者の顔だった。それは紛れもなく、楓と菖蒲の友人である、夕顔だった。
「あぁ」
確認の言葉を楓は口にした。無機質な顔でそう答えた。
2人はお互いに話す言葉をもうかけることはなく、無言の時を作り上げていた。
言いたいことはお互いにあったのかもしれない。楓からすれば「何故祭りに誘った」。菖蒲からすれば「何故帰ってきたその場ですぐに尋問を開始しなかった」。
だが2人は共にここまで何も言わなかった。幼いころからの親友同士で行った祭へ行った。しかしその祭ももう終盤だった。盆踊りのリズムも、駆け回る子どもの声も先ほどより鳴りをひそめていたのは確かだった。残るのは大トリの花火の打ち上げだけだった。そしてその瞬間はもうすぐそこまで来ていた。
花火が空に上がる、その時だった。
2人は同時に銃を抜いた。空に火の大輪の破裂音が響く直前のことだった。
花火が絶え間なく夜空に上がっている。一瞬の光は地上を色とりどりの光で照らしたかと思うと、次の瞬間には消えている。その音も光も夜空の彼方に吸い込まれていくように、解けることもなく、さらわれることもなく、ただ静かに沈黙へと向かっている。
「…っ」
右肩を抱えた楓は、花火には一切眼をくれず、ただ目の前にある光景を見ていた。彼女の肩からは真っ赤な血液が流れ出していた。幸い弾は彼女の肩を少し掠めた程度であり、その傷は決して深いものではなかった。しかしその痛みは、今まで彼女が負ってきた数々の大怪我よりも、棘が絞めつけるように痛ましく思えて仕方のないものだった。
楓の視線の先には、眉間に弾痕を残し、顔を血で染めた親友だったものがあった。菖蒲の血液は命の存在が消え去った今も、未だ広がり続けており、剥げたアスファルトや地面を侵食するように流れ出でていた。
楓は腰元のポーチに銃をしまうと、左ふくらはぎ辺りにあるポケットより、携帯電話大の通信機を取り出す。そして予め指定されていた通りに彼女は予定通りに信号を送る。任務終了を告げる合図だった。
花火は依然として空にあり、楓の顔を照らす。しかし輝かしい花火の光も、大きな破裂音も、彼女にはまるで夢の中のように思えて仕方なかった。ただ彼女を現実へと回帰させているのは、右肩からの痛みだけだった。同時に頭の中を平静に落ち着けようとすればするほど、花火の音よりも虫の鳴き声が鬱陶しかった。
「銃の腕で、私に敵うはずないじゃないか」
言う相手のいなくなったその場所で、彼女はそう言い残し、誰も来ない展望台を降り始めた。夜風が彼女の頬を撫でる。夜とはいえ、夏にしては妙に肌寒いように彼女には感じられて仕方なかった。
誰もいなくなった思い出の場所には、地に落ちた水袋から赤い金魚が3匹、暗闇とわずかな泥水の中、生きる場所を求め必死にのたうちまわっていた。