祭囃子(上)
山におい茂る木々は、夏の光を隠すのに調度いいものだった。
とはいえ夏の暑さはアスファルトを反射し、地上を照り付けている。暑さそのものがそこから消えるということはまずなく、空気とともにそこにある。それは彼女にとって、非常に鬱陶しく感じられるものだった。
上から下まで真っ黒なレーシングスーツを着込み、地獄の業火の如き排熱を発する相棒に跨り、彼女は森の細道を駆け抜けている。
徹底的に空力を計算されたフルカウルボディ。漆黒の影が木漏れ光に溢れる峠道の中を、風となって縫い進んでいく。
水冷DOHC4バルブ直列4気筒。排気量は1,137cc。彼の心臓は、その外見と合わさって、紛れもなく乗り手を速さの先へと仕向ける。そして乗り手もそれに挑発されても仕方のない魅力を持ち合わせていた。最高速度が時速300kmという公称を掲げたこの黒鳥は、エギゾーストという唸り声をあげて、山を急降下する。あたかも狩りに向かうかのように。
蛇の這う跡のように曲がりくねるカーブに対し、それを的確に予測する。重心を巧みにずらし、右へ、左へ。速度に呑まれないように手綱を完全に握った操縦。しかし、車体の高速巡航性を殺していない。人馬一体という言葉があるが、彼女と単車のその関係はまさにそれであると言っても過言ではなかった
森が開け始め、ヘルメット越しの彼女の視界には人里の姿が現れ始める。
(もう着いたのか)
彼女は汗ばむヘルメットの中の頭で、そう思った。「マスの集中化」を行ったがゆえの、轟音を伴うラジエーターからの排気熱。この車体の熱問題は誰もが頭を悩ますものだった。のぼせ上がりそうな蒸し暑さに対し、本来、目的地の到着という事実は喜ばしいはずである。しかし彼女の眼は依然として鋭く、力を抜いていないようである。むしろ逆にその鋭さは金属的な色合いを増し、鈍い重さを伴っているようだった。それはまるで、猛禽類がとりついたかのように。
この町は山で囲まれている。人口もそれほど多くなく、町に至る道は山を越えてこなければならないのが通常だった。今回、北西の山道から彼女は町に入ったのだが、彼女の目的地へはすぐに向かうことはなかった。北西の山道のすぐ傍の雑木林。そこに彼女はいた。
単車のエンジンは切り、雑木林に入れている。この雑木林はそれなりに人手をかけているようで、雑草の背も低く、木々の剪定もそこそこにされていた。とはいえ現在人の気配は皆無であり、彼女の周囲には煩いほどの蝉の大合唱が取り巻いていた。
ヘルメットを取った彼女から汗が散らばった。閉塞感から開放されたように彼女は一息ついた。ショートカットに纏めた髪は、お洒落さというより手間が掛からない合理性を追求したようなそれだった。つり気味の彼女の眼の上にある眉毛も、書いたものではなく地毛である。無骨すぎるような男らしいようなそんな雰囲気がどことなく彼女には漂っていた。
彼女は無言で、左ふくらはぎ辺りにあるポケットより携帯電話台の機械を取り出した。彼女は黒く無骨なフォルムをしたそれを弄り、動作を確認しているようだった。
(電波状況よし。それと…)
彼女の視線の先には、画面に浮かぶ文章があった。それを冷たい眼で見ると、何も思うことがないように機械を再び左ふくらはぎのポケットに戻す。続いて彼女の手は腰まわりにある黒いレザーポーチへ伸びた。彼女はチャックを開けることなく、ポーチの外からその形状を確認するかのように撫でた。
そんな時だった。
「楓ちゃん」
誰もいないと思っていた彼女の背後から声がした。その声に彼女は驚いた様子ですばやく振り向く。
「おかえり」
帰郷を歓迎する言葉を口にする彼女は微笑を浮かべていた。年恰好は18、19程度。背は低く、体つきは細身であるが、白色のふんわりとした袖の長いカーディガンを纏っているためか、体格以上の柔らかい印象を伴っている。淡い青色のロングスカートにしっかりとした造りのサンダルがよく似合っていた。腰元には皮製の大柄のポーチをつけている。
「菖蒲」
楓と呼ばれた単車の主は彼女に呼びかけた。菖蒲と呼ばれた少女は顔近くで右手を振り、それに応える。
「久しぶりだね」
「そうね」
満面の笑顔で友人を迎えた菖蒲とは対照的に、楓の笑顔はどこか固かった。
「汗臭いよ」
「仕方ないだろ、こんな格好だ」
茶化すように菖蒲が言い、楓が苦笑し手を広げる。上から下まで真っ黒のライダースーツをまじまじと菖蒲は見て、
「仕方ないね」
と言い、少し噴き出した。
雑木林に風が吹き、2つに分けたセミロングの菖蒲の髪が揺れる。
「髪、伸ばしたんだ」
楓は気づいたときにはその言葉を口にしていた。正直にそれを口にしてしまったことに、どこか決まり悪い感情が彼女の中に流れ込んでいた。
「うん」
菖蒲はただ笑顔で返事をするだけだった。
「ねぇ。今日、何の日か知ってる?」
その言葉に楓は返す言葉を探しあぐねる。何の日だったか本当に思い出せない彼女である。そんな空気を察して、菖蒲は困ったような笑みを浮かべた。
「忘れちゃった?お祭りだよ」
「あぁ…」
そういえばそうだった、と彼女は思った。故郷に久しく帰っていない彼女だ。祭の日取りなど彼女にとって忘却の彼方だった。
「ねぇ、久しぶりに一緒に行かない?」
「別に…、構わないけど」
「そう、よかった」
承諾の言葉を聞き、
「じゃあ、5時ごろに白上神社で」
そう言うと、菖蒲は静かに雑木林を去り道に出る。
「あ」
道に出たそのとき、思い出したように彼女は振り向いた。無意識のうちに、楓は少し身構えていた。
「アブに気をつけてね、楓ちゃーん!」
大声でそれだけを言うと、どこに置いてあったのか、菖蒲はオレンジ色の自転車に跨り、街中へと去っていった。
ついついその言葉に苦笑し、オレンジ色の自転車が坂を下っていくのを楓は眺める。
彼女の視界から菖蒲の姿が消えたとき
(何も変わっていないんだな)
と楓はただ思った。
田園に張られた水は赤色に染まる。烏が山へ向かい、トンビの声すらそこから離れていく。空の色は暗度を深めていく一方、地上は電気の光で満ち始めていた。
夕暮れを向かえ夜を待つこの町は、普段の夜とは異なる活気に満ち始めていた。提灯に点される暖色の光。並ぶ屋台に盆踊りの櫓。そして気色に満ちた人の声。まぎれもなく祭の夜である。
「遅いよ」
「悪い」
そことはほんの少し離れた神社にて、2人は約束どおり落ち合った。若干楓が遅刻した格好になったように見えたが、実際は菖蒲の来るのが早すぎただけだった。
「着替えなかったの?」
「まぁね」
楓の格好は相変わらずのライダースーツだった。体のラインが露になり黒一色のその格好は、祭の空気からすれば浮いているものだった。
「色気ないなぁ」
「ほっとけ」
軽口を叩きながら彼女たちは店を見て歩く。楓にとってみれば懐かしいというより、久しく忘れていたものを取り戻すような感覚だった。何せ彼女は祭など何年ぶりかのものである。
「そういえば、あのさ」
菖蒲が楓に問いかける。それは僅かながら、どこか遠慮気味だった。
「今年はどうして帰ってきたの?いや、あたしはうれしいけど、楓ちゃん普段は全く帰ってこない人じゃない」
「偶々よ、たまたま」
「故郷が恋しくなったとか?」
「まぁ、それもあるかもね」
少し困った調子で、楓は返した。
ふーん、と納得したようなそうでもないような反応を菖蒲は見せた。そんな時、彼女らの左手にある屋台に、菖蒲の目がいった。
「あ、金魚すくい」
「やるの?」
「うん」
躊躇いのない菖蒲の笑みと返答に対し
「すくってどうするの…」
若干呆れ気味の楓である。
「飼えばいいだけじゃない」
簡潔な菖蒲の返答に、なんともいえない顔を楓は浮かべた。
「お祭りなんだからそんなに気にしちゃだめだよ、後のことなんて」
「そう、…そうね」
その言葉を噛みしめるように、楓は返した。
「おじさん、一枚」
「はいよ、300円ね」
菖蒲は代金を払い、喜色に富んだ目で金魚すくいの水槽の前にしゃがみこんだ。
楓とは異なり、手先の器用な菖蒲にとって、この遊びは歳を重ねても楽しめるものだった。光を透けとおす薄い和紙のポイは、菖蒲にとって充分すぎる獲物だった。水の抵抗を巧みに最小限に抑えた手つきで、金魚の動きの境目を読み次々とお椀に金魚を放り込む。小ぶりな標的ばかり狙っているからとはいえ、その手際のよさに楓は感心していた。
幾らか経験を積んだためか、不器用さの改善について彼女はそれなりの自信を持っていた。その一方こうした菖蒲の姿を見ると、彼女の天性の才覚には適わないなと思わされてしまい、楓の顔にはつい苦笑が滲み出ていた。
時間が経ち、気づけばお椀に溢れるほどの和金やヒブナや出目金が窮屈そうに跳ねていた。その光景は出店の店主の顔を顰めさせ、周囲の客のいい注目の的だった。
「おい…」
「あ」
その様子に気づいた楓が声をかけ、菖蒲が周りを少し見渡し、引きつった笑顔を浮かべる。
「お、おじさん。この3匹だけちょうだい!」
そう菖蒲は店主に慌てた調子で切り出し、赤のヒブナ2匹と赤い和金1匹を指差した。苦笑した店主は手際よく指定された3匹をビニール袋に入れ、残りを水槽に戻す。それをそそくさと受け取った菖蒲は、楓とともに足早に出店を去ったのだった。
「ごめんごめん、つい…」
金魚の件を謝りつつ、舌を出す菖蒲である。苦笑いを浮かべて楓はその返事とした。
「あ、射的」
ふと楓の眼に射撃の屋台の姿が映る。
「やってみる?」
そんな菖蒲の掛け声に、大した反応をせず、店の様子を見に向かう楓である。
店の雛壇には駄菓子やライターなどが並べられていた。大賞と言う文字が書かれた派手な缶もそこにはある。それを狙う子どもたちもいたが、どうやら重りがつけられているようで、ただでさえ当てるのに苦労している彼らにとって、それは大変な獲物のようだった。
ふと菖蒲が楓の右手を見ると、その手は握っては離しを繰り返していた。また、彼女の眼はどことなく光を帯びているようであり、そんな彼女をみた菖蒲はついにやけてしまっていた。
「やる気だね」
そう楓に話しかける菖蒲であるが
「そういう訳でもないけど」
楓の返す言葉は否定だった。
それが言葉だけなのは、菖蒲にとって明らかだった。楽しみを目の前にして嘘をつけない眼。そして体が疼くときに行う彼女の癖は、幼いころの楓と変わりないことをここで確認できたからだった。
(変わってないんだから)
菖蒲はそう思い、
「おじさん、1回お願いー」
と言い、料金を払うとコルク弾を5発貰う。
「じゃあ、あたしも」
それに乗っかる形で楓も同じく参加の権利を獲得した。
弾を銃の先に着け、空気銃のレバーを引き、楓はライターの右上の角を狙う。弾ける硬い音がして、弾は発射され、狙い通りに命中した。しかし台の下に落ちることはなく、右後ろにずれただけだった。しかしそれで彼女には充分だったようで、2発目に左上角に狙いをつけ、命中させる。後ろにのけぞったジッポライターが台から滑り落ち、垂れ下がった布に落ちていった。
「おめでと」
そう店主が言うと、彼女は軽く会釈をしてライターを手にした。
「あーん」
一方で、菖蒲はそれなりに苦労をしているようだった。当たりはし、倒れはするものの、台から落ちることが難しいようで、中々景品の獲得には至っていない。
「こうなったら…」
痺れを切らしたのか、菖蒲の狙いは大賞に絞られた。
「おい、アレは無理だ」
「えー」
重りがついていること察し、楓はそう言う。
「じゃあ楓ちゃんやって」
「私?」
それに対して菖蒲の返答は安直なものだった。もしくは『お前には無理だ』と言葉を捉えたのかも知れないが、どちらにしろ彼女が残していた2つのコルク弾を
「はい」
と言って、楓の器に入れる。楓の持ち弾はこれで5発に戻り、その皿を見て彼女は頭を掻いた。
仕方がないと言いたげなため息を1つつくと、彼女は『大賞』と書かれた的に向き直り、弾をこめレバーを引いて狙いをつけた。
1発目は右角、2発目は左角。先ほどと同じように徐々に的を後ろへずらし始める。3発目、4発目も同様の手順を踏み、楓の残り弾はあと1発になった。
「いけそう?」
「正直無理っぽい」
楓がそう言うのは、空気銃の威力と重りが釣り合っていないからだった。4発命中させた彼女の感想として、重りが空気銃一発分の威力では下に落とせそうもない。その為に後ろにずらしてきたのだが、残り一発で的の重さを利用して、下に落とすにはふがいないというのが彼女の感想だった。
彼女は駄目元で、的の中央最上部ギリギリを狙うことにした。距離は近いため当てるのには問題はない。問題はどこに当てるかだった。
威力の軽い一発でのけぞらせ落とすには、より力のかかる角を狙うしかない。遊びとはいえ、楓の眼は真剣そのものだった。そのことは彼女の周りで同じように遊ぶ客たちの目をちらちらと引いていることにも気づいていないほどだった。
肘を固定し慎重に狙いをつける。
そして引き金は引かれ、弾が飛び出した。狙いどおりにコルク弾は当たり、重たい的はのけぞっていく。そしてそのまま自身の重さでゆっくり倒れていき、台からもはみ出たそれは自身の重さを預ける行き場所を失い、下へと落ちていった。
「すごーい!さすがぁ!」
菖蒲の歓声に対し、恥ずかしそうに笑う楓だった。
「お姉さんおめでとう!大賞だよ、……はい!」
そんな2人に店主は大賞である景品を抱えて、楓に差し出そうとしていた。それを見た楓の顔が引きつった。このご時勢に大賞とは巨大なクマのぬいぐるみだった。
「い、いいです。すいません!」
慌てて貰うのを否定し、菖蒲の手を引いた。とてもじゃないが、彼女はそんな目立つものを持って、この祭をねり歩く気にはなれなかった。
「えー?」
「いいから!」
不満そうに言葉を漏らす菖蒲を無視し、楓は彼女の手を引き、慌ててその場を立ち去っていく。彼女たち2人の姿はすぐに祭の人ごみに紛れ、限りのない喧騒の光景と同化していった。