箱の影(下)
ダニエルは顰めた面を表にしてリビングのソファーに腰掛けていた。猫背気味の彼の左右には屈強な2人の男が立っており、彼の正面には同じようにソファーに座ったヴィクトリアの姿がある。赤く腫らした眼をした彼女だったが、彼の関心はその彼女よりも別のところにあった。銃痕が残る壁、割れた花瓶、泥で汚れた絨毯。そんなリビングの光景だったが、それすらも彼の興味の範囲外だった。
「俺はさァ、おしとやかな女は嫌いじゃないんだ。文学や芸術に興味がある女、教養がある女。結構なことじゃないか」
重苦しい調子で、彼は話しはじめた。
「ただあんな人体オブジェはどうかと思うんだよ」
そしてため息をついて、膝を組む。
『人体オブジェ』と彼が称するものは、彼らがこの館の玄関から、もしくは裏口から入りこんで、まず一番に眼にしたものだった。90cm四方程度の箱の中に複数の男だったものたちが解体され、手足が葉のように首が花のように、無理やり押し込められていた。
内臓物は当然箱には収まりきらないはずで、その箱の周りに溢れ出していた。むせ返るような生臭い鉄の匂いには、流石にそれに慣れているはずの彼らでさえ、充分に胃に刺激をもたらすものだった。
「それはあたしじゃないのよ!」
叫ぶように彼女が訴えかけた。
(それもそうだ)
ダニエルはそう合点する。笑ってしまえるほどに当たり前の返答だった。左右の男たちも、この館にいる他のダニエルの部下も、この線の細い花屋のホステスがやったとは思えなかった。とてもじゃないが、未来からやってきた女性サイボーグでもない限り、こんな芸当はできっこないというのが彼らの共通の認識だった。
茶色の葉巻を銜え、ダニエルは火をつける。安っぽく甘い香りと白い煙がリビングに広がる。
「で、何があったんだ」
彼が煙を一吐きし、彼女に聞いた。ススだらけの手足の彼女は震える声で説明を始める。左右の部下に指示を出しつつ、彼はその話に耳を傾けていくのだった。
説明をし終えた彼女の後のリビングには、まず沈黙が残った。彼らの誰もには、その顛末の先にそれほど疑問を抱かなかった。しかし、1つだけ奇妙な点が残っていた。その答えは沈黙の先には在りはしない。しかし、それを考えずにはいられなかった。もちろんこの事件最大の被害者であるヴィクトリアも。
「つまり、だ…。お前が命からがら窓の壁に張り付いている間に、ヒーロー『切り裂きジャック』がこの館に現れて、ヤツの趣味を完成させた…、そういう訳か?」
冗談めいた調子のダニエルに対し、ヴィクトリアは頷くだけである。その様子を見て、悪戯好きの少年のような顔をしてダニエルは笑みを漏らした。その一方で、彼の頭の中の張り詰めた糸のような存在感を拭えないでいた。
この事件を解決し、猟奇的な犯行を犯した彼は誰なのか。結局、それはここにいる誰にもわかってはいない。彼は誰なのか、何者なのか、何のためにこんな行為をしたのか。何一つ謎のままである。
(妙な影、な…)
一方で事件直前、もしくは事件中に彼女が遭遇した人影の姿の存在を彼はまた思い直していた。ヴィクトリアの証言から得られたその存在は、それそのものが奇妙で、恐怖の中で出でた幻覚を思わせるほどぼやついたものだった。その一方で、その影が妙な落としどころに嵌る感覚すら覚えているのも確かだった。
気づけば銜えている葉巻の火元は、彼の指に近づいていた。熱量からその存在を感知すると、灰皿にそれを起き、残った煙を吐ききる。
「まァ、さ。お前が無事で何よりだ、ヴィック」
向き合って彼はそう言った。
「お前のためにホテルを手配した。一応用心だ。俺の部下もつけるから今日は安心して過ごすといい」
続けざまにそう言って笑顔を向ける。
目の前の彼女はもう落ち着いてはいた。しかし、この館でそのまま残すわけには当然いかなかった。今日どころか明日もであり、彼は彼女にしばらく営業をやめるよう提案することすら考えてもいた。館の経営にそれなりの自負をもっている彼女であるため、それは骨の折れる説得であるものだと彼は考えている。その一方で、このままでは営業ができないことを口実に、なんとか引き込めないかとも考えてもいた。
(役得だな)
そう心の隅で思うと、どうしても頬がつりあがりそうになる彼である。
「わかった。ありがとね、ダニー」
彼の心中は他所に、そうお礼を言い、彼女は立ち上がった。手荷物の整理のためである。
「おい、誰か手伝ってやれ!」
「いいわよ、一人でできる」
少しふらつき気味ながらも、しっかりとした足取りを保ち、彼女は2階へ登っていった。
灰色の町が窓を流れていく。セダンの中でぼんやりとしながら後部座席にてヴィクトリアはそれを眺めていた。
体中が重く気だるかった。過度の緊張や、普段しないような運動の疲労が、急激に彼女に押し寄せてきていた。眠気すら感じるほどのそれであったが、不思議と意識ははっきりしていた。
頭の中には窓の光景など一切入ってこず、今まであった事件をすべて反芻するような渦巻く思考が絶えることなく続いていた。壊れてしまったレコードのように何度も何度も同じことを思い浮かべていた。そして今いる彼女自身の状況が不思議に思えてくるほどに、現実離れした脱力感が体を満たしていた。
ふと腰元に彼女は手を伸ばす。そこには固く冷たい鉄の感触がある。彼女があの時もっていた銃である。
「本当に頼りになったわ、ありがとね」
銃を送ってくれたダニエルに、館を出る前に彼女はそう言った。使わなかったとはいえ、精神的な支えになったその武器を送ってくれた相手に対する、彼女の感謝の言葉だった。『頼りになった』というフレーズに対し、彼はまるで自分のことのように照れくさい笑みを浮かべ、オールバックの頭を掻いていた。そんな彼の顔を思い出すと、どこか愛らしく噴き出してしまいそうになるヴィクトリアである。
その一方で何かを忘れているような感覚もあった。ぼんやりとした思考の中、それは何なのか探ろうと車内で思考に耽ってはいたものの、依然としてその答えは見えてこなかった。
(なんだっけな…)
それは事件のことではない。しかしそこまで昔の話でもない。近い時間の話だ。それは彼女は自覚していた。
ふと、記憶を遡ろうと彼女は試みた。
(あの事件のことじゃない。その前…。前に来たときの忘れていったネクタイピン…。違う、そんなんじゃなくて…)
記憶を遡り、戻しを繰り返すうちに、ついに彼女は気づかされた。
(あの子…)
今朝見つけた少年の遺体のことだった。命の危機からの開放が先行し、すっかり忘れていたのだ。その遺体の処分も頼まなければ、そう彼女は思うと、服のポケットを探った。
(あれ…?)
しかしそこには目当てのものが存在しなかった。携帯電話である。どうやら館に置いてきてしまったようだ。
「車を返してくれない?」
連絡が取れないため、直接言いに戻ろうと、ヴィクトリアは運転手にそう声をかける
「無理ですよ」
しかしその返事はつれないものだった。
「忘れ物をしたの」
「後から俺が買いに行きます」
「携帯なのよ」
「何かあったら、ホテルの電話で勘弁してください」
運転手には戻る様子は微塵もなかった。
「でも」
今伝えたいことがあるのだけど、と彼女は続けようとした。
「後の処理は俺らに任せてください」
続くはずの言葉を運転手は遮るようにして返答する。その様子に彼女は閉口するしかなかった。
仕方ない様子で、後部座席に背中を再び預け、窓の外を見る。車はトンネルに入り、ほの暗さとリズムの良い赤い光が車内を満たす。車はどうやら相当郊外のホテルへ向かっているようだった。
(そういえば)
と彼女は思った。彼女もあの惨たらしい死体の山を見たのだが、その箱はあの少年の入っていた箱であった。それに気づくと、台所に置いたはずのそれが何故玄関先に移動され、さらに少年の遺体の行方はどこにいったのかという疑問が彼女の頭に浮かんでいた。
何から何までわからないことだらけだった。そしてその謎は新たに彼女の心を侵食するように広がっていく。
だからなのか彼女は運転手の彼に携帯電話を借りるという簡単な解決方法すら思いつかないでいた。
ヴィクトリアが出て行ってすぐのことである。変わらず荒れたままのリビングで彼らは様子でそこにいた。
「ダニエルさん」
若く顔が細い男が、ソファーで足を組み、葉巻をふかす彼に話しかける。
「何だ」
彼の顔を見ず、返事だけを彼は返す。若い男はそれに意を解さないように言葉を続けた。
「あの連中ですけど、やっぱりルチアーノの所のモンでした、全員」
「そうか」
その報告を受けると、心中で大きな喜びが彼の中に湧き上がった。死体の山を見たとき、どこかで見た顔だとは思っていた。それがまさか仕事上の競合相手の下っ端であったとは、思わぬ収穫だった。彼の仕事の縄張りを乱している連中。そいつらが一掃されたのだ。
ヴィクトリアを人質にとるなり、殺すなり、もしくはここに何かしらの資金や情報があると踏んだんだろう、と彼は予想づけた。いつかはやりあうことになるとはいえ、ここまで強行に急激に手を打たれるとはダニエル自身思っても見なかった。本来ならその計画は成功したはずだった。この館にはヴィクトリア1人しかいないはずなのだから。しかしそれが何の因果か、このような結果を招いた。悪運の女神が微笑んだとしか彼には思えなかった。
「写真はとったか?」
「はい」
「じゃあプレゼントしてやれ、あの若造どもに」
手短にそう指示すると、若い男はリビングより姿を消す。ダニエルの顔には満面の笑みが浮かんでいた。今すぐにも噴き出しそうないきおいで顔を真っ赤に染めている。
「全く、とんだ役得だ…」
そう一言満足げに言うと、少しだけ笑い声を上げた。左右の男たちも彼らのボスの様子を見て、肩をすくめながら笑いあう。
「死体の処理がめんどくせーなァ」
ダニエルの笑い声を含んだ一言が、リビングを笑いに包み込んだ。風船に針を差し込んだように、笑い声がはじけとんでいた。
空気は緩みきっていた。彼らは思わぬ収穫を享受し、黒い喜びに満ちていた。それ故に、事件を解決した犯人の姿など脳裏から消えていたし、気づいたとしてもどうでもいいことだった。
リビングに通じる扉の1つが少しだけ開いていた。そこから誰かが覗いていることなど、彼らが知るはずもなかった。彼の手には拳銃が握られていた。それは紛れもなくヴィクトリアと同じ拳銃だった。
荒れきったリビングでくつろぐ男たちの様子を、傷だらけの少年の眼が扉の隙間より捕らえていた。