箱の影(上)
目覚めたばかりのヴィクトリアは、天蓋つきのベッドに腰掛けてぼんやりと窓から漏れる光を見ていた。窓から漏れる淡い光は、彼女の唯一身に着けている服装である、黒いランジェリーをほのかに照らしている。
喫茶店のモーニングが終わる位の時間帯。彼女にとってこの頃合はその仕事柄ゆえよい休憩時間だった。昨日の彼女の仕事は深夜どころか朝方まで及んだせいか、ついつい彼女の顔には疲労の色とあくびがついてでていた。
(もう一眠りしてしまおうか)
とも彼女は思ったが、彼女生来の奇妙な生真面目さがその欲求を彼女を押しとどめた。
ベッドの傍にあった円形テーブルの上にある煙草とライター、そしてガラスの灰皿を手にし、窓際に近づきレースのカーテンを開ける。眩い光につい彼女は目を顰めた。
彼女窓を少しだけ押し開けて煙草に火をつけた。くぐもった煙は外には漏れるものの、空気の流れのせいだろう、殆どが外に行かず寝室内に漂い始めていた。それをどこか鬱陶しそうな眼で彼女は見ると、思い切ったように、窓を全開まで押し上げた。わずかに冷えた空気が窓の中に入り込み、アイロンの糊掛けのように部屋に張りをもたらした。
窓枠に腕を乗せて、外の風景を見ながら彼女は煙草の煙を吐き出す。自動車の走る音、喧騒が無い奇妙な沈黙が走る街、古ぼけたアパートやモーテルに店舗の数々。それはいつものこの地区の光景だった。
灰皿を使わず窓枠から灰を落としつつ、何をするわけでもなく彼女はぼんやりとしていた。いつもの彼女の慣習である。一通り煙草を吸い終わると、部屋の方向へと向き直り、床に置いていた灰皿に吸殻を押し付ける。
(灰皿を置くためのストールでも買おうかな)
と彼女は思った。これもここ数日思っていることであったが、それもすぐに消えていく思考の一つにすぎなかった。
「さて、と」
そう一息し、体を伸ばすと同時に洋服タンスの方に向かい始める。仕事開始の無意識の合図であった。
適当に見繕ったシルクのスリップとロープを身に纏い、靴下を履くと、彼女は1階へと降りていったのだった。
この区画の路地裏は自然と暗いものだった。背の高い建物が軒を連ねるということもあったが、その一方でどこか乾ききった砂利を含んだような空気もそれを手伝っているのかもしれない。
そんな路地裏で火虫が舞っている。火虫の源は煙をもたらす人間の嗜好物であり、それはヴィクトリアが好んで吸っているものだった。
いわゆる煙草を加えた彼女だったが、その表情には明るさなどは特になく、むしろけだるさを醸し出す顔つきだった。
彼女の両手にはゴミ袋。彼女の日常の仕事の1つであり、必要不可欠な行動であるゴミ捨てである。
ヴィクトリアの仕事場兼住処であるすぐ横の路地裏に、ゴミ捨てバケツがあり、彼女はそこに日常的にゴミを出していた。そこに出しておけば専用の業者が訪れ、定期的に回収を勝手にやってくれるのだ。
「…あ?」
路地裏のごみ捨てバケツの陰に箱があることに彼女は気づいた。大きさは90センチ四方の底が深い箱だ。ゴミを最後に処分したのは2日前。その時にはこんな箱の姿はそこにはなかった。
誰がこんな所にと思い、箱の蓋を取り、ひょいと箱の中身を見ると
「うーわー…」
その中身に愕然とした。
中には裸の子どもがいた。傷と痣が無数に存在している子どもだった。その上、顔は血の通う色をしていない。灰色の肌である。しかしその外傷の割には出血の様子は一切見られなかった。
彼女はその子どもの肌に触れてみた。硬く冷たい感触が彼女の手のひらに伝わってくる。
間違いなく箱の中の彼は死んでいるように彼女には思えた。
彼女は困ったように天を仰ぎ、ため息をついた。
警察に通報する訳にはいかなかった。警察など普段より避ける対象なのに、追い討ちをかけるかのように彼女にとってそれを為すには、今日は最悪の日取りだった。
なぜなら今日は大切なお客がやってくる日だった。この地区で「花屋」を営む彼女にしてみれば、上物のお客を逃しその機嫌を損ねることは廃業につながりかねなかった。
(何でこんなもんウチの傍に置くんだよ…)
彼女はこれをこのまま放置するわけにはいかなかった。善良な第三者、もしくは悪意のある第三者が発見したら事だ。それだけは避けたかった。
基本彼女が住むこの地区は、その性質ゆえに日常茶飯事で事件が起こる。それは喧嘩であり詐欺であり、一方で麻薬売買のトラブルもあり、場合によっては殺人もある。しかしこれほどまでにお世辞にも治安がよろしくないこの場所で、警察が来るべき事件数と比べれば、その通報回数は極めて低いものだった。ある出来事に関して、無関心な第三者でいなくてはならない場合が多々ある、そこはそういった場所でもあった。
仕方ない様子で彼女はその箱を見た。ため息をついて箱の蓋を閉じようとする。ふと彼女の視線がその箱の蓋の裏にいった。何かそこに違和感を感じたのだ。そこには文字が書いてあった。
『あなたはここに居るべきではない』
文章はそれだけだった。そしてそれは、彼女にとって顔を顰めるに充分なものだった。
このあなたとは誰を指すのか。この少年か、それともこの箱の持ち主か。はたまた彼女自身なのか。彼女自身であるとすれば、この上ない嫌がらせか、奇怪な趣味を持つ変態の行動に違いないものだった。
しばらく煙草を口にして顔をゆがめていた彼女だったが、諦めがついたように煙を吐ききると、ゴミ袋をその場において箱を持ち上げた。子どもの体重は彼女が思ったとおりそこまで重いものではなかった。とはいえ、女性である身であるため、それなりの腕の負担はあったのだが。
どうにか箱を持ち、路地裏の奥にある裏口のドアへ向かい始めた。足で裏口のドアをすきまから押し開け、彼女は箱を家の中に入れる。裏口は台所に通じており、すぐそこに箱を下ろした。かったるそうな彼女のため息が台所に響いた。
(この処分は今日のお客に頼もう)
そう思い、彼女は彼女の日常に戻ることにした。仕事はそれなりに溜まっていた。クリーニングに出すものの選定、お客たちの残していったゴミの片付けから食器洗い、そして掃除。それらを夜までに完了しなければならない。
彼女はいつも通りの手順で、まずは寝室のシーツの取替えとクリーニングに出すものを選定するため、2階の寝室に向かおうとした。
台所を出ようとしたその瞬間、彼女は身をこわばらせた。窓から溢れる光が人影を作り上げていた。
人影は静かに廊下を歩き、彼女の視界から消えていく。
(……え?)
ヴィクトリアは戸惑った。この館には今日は彼女しかいないはずだった。
「…誰?」
口からついつい疑問符が滑り落ちる。
「ねぇ!誰かそこにいるの!?」
声を張り上げてみる彼女だが、返事はない。時計の秒針の進む音だけが、彼女の耳にうるさく入ってきていた。
その影の見えた方向に行こうか、と彼女に一瞬迷いが生じた。しかし、その考えはすぐに払拭された。
眼を開き、耳をそばだて、彼女はゆっくりと寝室へ向かい始める。床板を踏み鳴らすわずかな音すら、布のこすれる音すらも、彼女には大きな物音に聞こえて仕方なかった。
階段の目の前に彼女はたどり着くと、一目散に駆け上がった。そしてそのまま慌て走りながらも寝室に向かう。
寝室のドアが勢いよく閉まり、ヴィクトリアは寝室に鍵を掛けた。そしてそのままベッドの下にある隠しの引き出しに手を伸ばす。
そこにあったのは拳銃だった。その姿を確認すると、ゆっくり安堵の息を彼女は吐いた。弾の数を急いで確認し、それを右手で持つ。彼女に親しい客の1人が彼女に護身用として持たせた代物だった。
必要ないと思って愛想笑いをして受け取った物騒なそれが、彼女には安心をもたらすお守りに思えて、一瞬皮肉めいた感情に囚われたのだった。
その刹那、突然1階にドアを荒々しく開ける音が響き、ヴィクトリアは体をびくつかせた。同時に数人が踏み込んでくる音がする。鳴り響く荒い音は間違いなく不穏な侵入者を示すものだった。
「一体何なのよ…」
不安からつい口から言葉が滑って出た。
荒々しい男性の声が響いたと思うと、ドアを開けるような音が断続的に響いている。それは誰か、もしくは何かを探しているようなものに相違なかった。
(……強盗ってか…)
まず彼女の頭に思い浮かんだその人物像はそれだった。しかしそれと同時に、頭に思い浮かんだのは、箱に入った少年でもあり、廊下で見た人影でもあった。どちらにしろ不安材料そのものであり、解決の糸口のつかみにくいものである。
知らず知らずのうちに拳銃を握り締める手が両手に変わり、身を寄せる先が窓枠近くの壁になっていた。寝室の入り口から一番遠い場所である。その場に座り込んだ形に彼女は落ち着いた。
呼吸を整えつつ、ヴィクトリアは目の前のドアを凝視する。いつ誰が入ってきてもすぐに『対応』できるように、呼吸をゆっくり整えていた。
しかし、それは突然だった。
彼女の背後の窓に黒い人影が写りこんだ。
「ひっ…!」
心臓の音が高鳴り、彼女は後ろを振り向いた。銃口を窓に向け、引き金を引こうとした。
しかしそこにはもう誰の姿もなかった。カーテンがわずかな風に揺られていただけだった。
早まる心臓の鼓動を抑えながら、その場に彼女は身を強張らせる。誰かが窓の外から伺っていたのと、彼女には思えたのだ。しかしそれは常識では考えられないことだった。
(ここ2階だぞ…)
彼女のいる寝室は2階だった。そして窓の先にはベランダなどは存在しない。つまり、そこにいた彼は、何もない空中に立って彼女を伺っていたということになる。
(どうなってんのよ、まったく…!)
彼女の頭に混乱と焦燥と恐怖が渦巻き始めていた。その感情の流れは、彼女の心象を通して体中に、汗と鼓動と緊張感となって放出されていく。
(とりあえずここは危ない)
彼女はまずそう思った。下の出来事と関係あるか、もしくはそれが誰だか知らないが、ここは狙われているし、見つかってもいる。そう彼女は判断した。
(じゃぁ、どこいきゃぁいいのよ…?!)
ここは2階である。1階には複数の男たちの姿があるのは容易に想像できる。そして彼らが2階へ向かってくることも。
そんなことを彼女が考えているうちに、さらに彼女の心を焼くような音が鳴る。
(誰かが上がってきてる)
2階に上がってくる重い足音が彼女の耳に入り込んでいた。
黒人の体格のいいスーツ姿の男は、階段を踏みしめるようにゆっくりと上がっていた。音を消すようにして歩くつもりが、どうしても木のきしむ音がしてしまい、そのことが彼にいらつきをもたらした。
(オンボロ階段が)
頭の中でそう毒づく一方で、何が出てきても油断をしないよう、彼の目つきは狩人のそれとなっていた。手には黒く鈍く光る拳銃が握られており、屈強な彼の体にそれは様になっている。
階段を上りきる寸前で彼は慎重に階段の壁から左右を確認した。2階の廊下には誰の姿も無いことを確認すると、そのまま足どりは重たいままで、近くのドアへと向かう。
ゆっくりとドアノブに手を回し、勢いよく捻りあけようとした。
(糞ッ)
しかしそれは不発に終わる。鍵が閉められていたのだ。
即座に銃をドアノブに向け、引き金を3回引いた。強烈な破裂音と共に、金属がはじけ飛ぶ音が響く。
そしてドアを思い切り蹴り飛ばすと、ドアが勢いよく開かれる。
彼の目の前に寝室が現れた。
そしてそこには誰の姿もなかった。
鼻で荒い息を一吐きし、ベッドの上からソファーの近くまで、物陰になりそうな所を男は確認し始める。
しかしそこには生活臭のする光景以上の姿は一切なく、誰の人物の姿も、彼の求めているものもどこにもなかった。
忌々しい調子で、彼は舌打ちし、寝室を出て、別の部屋へと向かっていった。