十二月の薔薇
12月12日19時ごろ。某駅の近くの大通り。
その街はすでに夜の色を帯び始めていた。駅の近くに煌くネオンも呼び込みに忙しい居酒屋の店員もそこに在り、喧騒と家へ帰る足並みとが同時に存在するそんな光景がそこには在った。
街路樹のクリスマスのデコレーションを眺めながら、裕子は自宅であるアパートに向かって歩いていた。仕事が終わりその帰り道である。電車で2駅、そこから徒歩15分という自宅までの距離はすでに彼女にとっては歩きなれたものだった。しかし
「さっむ…」
その一方で、ついつい口から出るのはその気温への不満。この年の冬将軍は専ら絶好調のようで、凍てつく空気にしろ、神経を底冷えさせるような風にしろ、それらに関しては手加減というものを知らないが如くだった。
「お花いかがですか」
ふと裕子が目の前を見ると、そう言って花を配っている女性の姿があった。その女性の姿は厚いコート、ニット坊にマスクをしており、防寒に神経質なまでの格好をしていた。
ティッシュ配りのようなアルバイトだろうか、と裕子は思い、それと同時に同情の念が浮かんできていた。この寒さの中、アルバイトをする彼女の境遇というものに対してであった。
(こういうのってノルマ制なんだっけ)
ふと彼女はどこかで聞いたようなアルバイトの話を思い出した。その内容が現実の実情に沿ったものかは彼女にはもちろんわからない。もしかしたら時間給かもしれない。そんなことを考えているうちに、花を配る女性の前まで、彼女は歩みを進めていた。
「お花いかがですか」
女性が裕子にそう話しかけてきた。手袋をした彼女の右手には、薔薇が握られていた。
裕子はにっこり笑って
「ありがと」
と言葉を返し、花を受け取った。薔薇が彼女に手渡されるとき、何かが抜ける音がした。しかし裕子は、そんな音に気をとめることなく、そのまま歩みを進めていった。
裕子は花に目をやると
「薔薇、ね」
とつぶやいた。彼女が手にしていたのは真っ赤な薔薇であった。暖色な町の光が花びらに穏やかな影を与えていた。
淡い光に照らされた薔薇についつい見入る裕子だった。しかし突然鼻で笑うと、歩くペースを少し速め、帰り道を急ぎ始めた。
(こーいうのは男にもらいたいものだけど)
脳裏でそう毒づくと、どうしようもなく空虚な笑いが彼女の中に訪れていた。12月の街中の光は、独身で彼氏なしの女性にはそれなりに辛いものだった。
歩みを進めるうちに、裕子は交差点に至った。歩行者信号が赤色に輝いており、車が目の前を往来し、排気ガスと風を巻き起こして通り過ぎていく。
(ごはんどうしよう)
ふと彼女はそう考えた。彼女のアパートの冷蔵庫の中身というものが、何もないことに気がついたのだ。
(面倒くさいから今日はコンビニでいいや)
そう思うと、目の前の歩行者信号が青色に切り替わっていた。少し駆け出すように横断歩道を進み、彼女はコンビニへの道を進むのだった。ふと、もらった薔薇が剥き身で広告らしい広告がなかったことに妙な感覚を抱いたが、冬の風に消されるようにその疑問はどこかへ消えていったのだった。
あるワンルームアパートの2階。足音がその部屋に近づいてきていた。ドアに鍵をあわせ、そして
「たっだいまー」
そう裕子は言ってドアを開けた。当然ながら返事などない。しかし同時に、彼女の日課であるこの行為に意見を唱える者もいなかった。
裕子は靴を脱ぎ、部屋の電気をつけて周った。コートをハンガーにかけると、さっさとスーツを脱ぎ捨て、ベッドに放り投げた。下着姿になった彼女は、体を震わせながらタンスを探り、ジャージに着替える。
そして一日の疲れを癒すがごとく、脱力した声を上げながら、ベッドに倒れこむのだった。
そのまま少しごろつく彼女だったが、突然猫のように飛び起きた。
「腹すいたな…」
と一言言うと、けだるそうな目をしながらも立ち上がった。そして
「ぐっらたん、ぐっらたん」
一人でそうリズムを取りながら、コンビニの袋に歩み寄って、中身を見た。そこには彼女が先ほどコンビニで購入した、グラタンの姿があった。
「あれ…?」
しかし、彼女はその内容物を見て疑問を覚えた。
(あの薔薇が…ない)
彼女はそう思った。コンビニからの帰り道で薔薇をビニール袋の中に入れた彼女だったが、その茶色の袋の中にはグラタン以外なにもなかった。
(ビニール袋に入れたはずなのにな)
記憶を確認した彼女だったが、その確信自体に変化はなかった。
そこでもう1つの白いビニール袋を探ってみる。購入したチョコレートやサラダの姿はそこにあった。しかし、入れたはずの赤い薔薇はどこにもなかった。
(どこかで落としたかな)
そう彼女は思った。少し考え、落としても仕方がないとも思った。
帰り道で肉まんを食べながら帰った記憶がそれを裏付けさせた。おそらく肉まんを取り出した際に、薔薇を落としたのだろうと想像したのだ。
(勿体無いことした…)
彼女はそう思って、購入物のみがそこにある袋を見て、頭を掻いた。別にそこまで薔薇が惜しいものではない。ただ落とすには不憫なものだったと思ったのだ。
「薔薇かぁ…」
ふと、裕子は実家の母親のことを思い出した。昔、母親が薔薇を育てていたのだ。
(何か言ってたなぁ、母さん)
その記憶をなんとなく探ろうとするが、ぼんやりした霞がかった経験のフィルムが脳裏に描かれるだけで、具体的な像を結ぶことはなかった。思い出せないのが気持ち悪く、その場で思い出そうと、頭を抱える裕子だった。しかし5分もすればその興味は薄れるもので。
「ま、いいか」
諦めがあっさりついた裕子は、テレビをつけて、グラタンを食べることに熱中することにしたのだった。
12月13日深夜。
その日は一段と冷え込む夜だった。窓の外の空気は凍てついているかのようだった。
裕子は翌日の仕事に備え、すでに床についていた。普段なら熟睡体質の彼女のこと、朝まで問題なく眠れるはずだった。しかしこの夜、それは妨げられていた。
「う……」
異様なほどに気持ちが悪く、裕子は空ろに眼をゆっくり開いた。体中が汚染されているような感覚が、彼女の全身に回っていた。熱があるような、平衡感覚が狂うような、そういった症状が彼女を苦しめていた。
(ぁ…にこれ…)
ぼんやりとした頭でそう裕子は思う。風邪か?それにしては急すぎる。インフルエンザでもないような感じがする。ではなんだろうか。食中毒?なんにしても、彼女にとって至急の課題だったのは原因特定ではなく、症状の改善だった。
ベッドから這い出て、なんとか立ち上がろうとする。部屋の中は暗闇であるため、まず電気をつけようと電灯のスイッチに手を伸ばした。
部屋の中が電気の光で満たされ、像が鮮明になる。
そこで裕子は自身の目を疑った。
「……ぁあぁ!!」
両手が爛れているようなひどい肌荒れとなっていた。驚きのあまり声を上げた裕子だったが、その瞬間、その違和感は全身に及んでいた。
それを確かめるため、なんとか鏡の前までたどり着いた裕子は、自身の顔を見て驚愕する。顔も恐ろしく爛れ、茶色になった皮膚がそこに張り付いていた。
「ど…どうして…」
思わず声が出る。どういうことなのかと聞きたくなる光景だった。明らかにこれは普通の病ではない。内臓からの疾患の感覚、皮膚に出た爛れのような肌荒れ。このような経験が一晩であることなど、彼女は今まで経験したことがなかった。
よく顔や手を見ると、妙なことに気がついた。茶色い部分から穴が開き始めている。乾燥しきった肌の細胞が、壊死していくかのようだった。
それを確認したときには、彼女の心中に焦りと不安が押し寄せてきていた。体をなんとか支えながら、携帯電話を取ろうと机の方向へ歩み始めていた。
体を引きずるようにして机へ向かい、机の上の携帯電話を取ろうとした。
「…っつ!」
急に携帯をつかもうとしたその手に痛みが走った。携帯電話が床に転げ落ちた。針で刺されたような痛みがした彼女は思わず自分の手を見やる。
するとそこには無数の棘が生えていた。刺さっているのではない。彼女の手から小さな棘が生えているのだ。
「こ…れ……薔、薇の」
彼女の脳裏に棘から連想される光景が広がった。間違いなくその棘は薔薇のものだった。
それを意識した瞬間、突然母親との記憶がよみがえってきた。
記憶の中の母親はこう彼女に告げる。
「薔薇っていうのはね、棘があっておっかない感じするけどさ、本来寒さに弱いし、病気にも、虫にも弱いし。そういう植物できれいに育てるのが結構難しいのよ」
その言葉が何重にも何重にも彼女を取り囲み始めていた。幾重ものその言葉は彼女が今受けている症状と酷似していることが彼女を余計に混乱させた。
しかし症状だけは変わることなく、彼女を確実に悪いほうへ堕としはじめていた。心拍数の上昇と熱のような感覚、そして平衡感覚の崩壊が襲い掛かってくる。そして紫の斑状の肌荒れが体中に出でて、その中央からは次々と穴が開き始め、体中に棘が生え始めていた。
(何と、か、…し、ない…と)
裕子の推測としては、もうこの症状があの薔薇によるものだということで結論付けられていた。それ以外に彼女に考える余裕がなかったというのも確かである。だがどのような状態であれ、彼女に何も対処の仕様がないということはまったく変わっていなかった。
(お医者、さ、ん…に、電、話、を…)
彼女が取る方法は、現実的に信頼できる専門家に見てもらうより他になかった。再び携帯電話を手にするため、四つん這いで携帯に近かより右手を伸ばそうとした。携帯電話に手が届くと同時に、指の先に奇妙な感覚があった。柔らかく微弱に動いているその感覚は彼女の右手の爪の先にあった。彼女がその先に視線を移すと、そこには緑色の無数の芋虫が彼女の右手にまとわりついている光景があった。
悲鳴を上げた彼女は、気が動転し携帯電話を壁に投げつける。同時に芋虫が数匹宙を舞った。携帯電話がひじゃけて、虫が床を這い蹲る。しかしそれでも全ての虫ははがれておらず、爪の先についた虫は爪の隙間を広げるようにして、彼女の中へ入っていこうとしていた。あたかもそれは、彼女を内側から食いちぎらんばかりの動作だった。彼女の爪は紫色に鬱血した色に染まり、穴を中心に虫が集り、食い散らかし穴を広げ始めていた。
泣き叫びながら裕子は必死に虫を払い落とし、風呂場へ逃げるように駆け込んでいった。途中方向が定まらないために、足を捻り、頭を壁にぶつけたが、そんなこと彼女にはどうでもよかった。
裕子は急いでシャワーの栓を捻る。途端熱湯が、ジャージを着ている彼女に注ぎ始める。虫が体から落ちていくと同時に、彼女自身、とてつもない痛みに襲われた。
「あついあついあつい!!!!!」
先ほどまで浴びていたはずのお湯の温度が、現在の彼女には異常に熱いものに感じられた。全身火傷を負わんばかりの感覚が彼女の体を襲い、体中から茶色の皮膚が崩れ落ちていった。
急いで水に裕子は切り替える。火傷の感覚が彼女から引き、残った虫を徐々に流し落としていった。
普通なら冷たいはずのその水の温度だったが、今の彼女にとってはむしろ逆だった。調度いい水加減を浴びながら、彼女は無言で体についた虫をはがして落とし、その作業を繰り返し始めていた。目はもう淀んでおり、この作業と水の温度が唯一彼女を励まし続けているようだった。
「はぁ…」
落ち着いたとも、疲れたとも、裕子はなんとでも取れるため息をつく。水の当たる音がバスルームに響き、流れる音が静かにさわぐように在り、それ以外の音が消えてしまったかのような光景の中で、彼女は佇んでいた。
依然として、彼女の症状がすべて治まったわけではなかったが、水の効用は幾分か彼女を小康の方向へ向かわしていた。
(これから…、どうしよう、かな…)
ぼんやりと、バスルームの光を眺め、彼女はそう思った。目からは静かに雫が滴っていた。
しかしどうすればいいのだろう。誰に言えばいいのだろう。抽象的であてのない答えを探しているように彼女には思えて仕方がなかった。
(明日の仕事、どうしようかな…)
落ち着いた心境か、現実への回帰意識の裏打ちか、彼女はぼんやりそんなことも考え始める。しかし脳裏に浮かぶのはなにもなく、ただどうしようもなさに包まれていくかのように思えて仕方がなかった。
なぜか彼女に笑いが漏れた。そして大粒の涙が滴り落ち始めた。水の音に混じって、彼女の声がただ響いていた。
裕子はどれくらい泣いただろうか。30分とも1時間とも知れないが、彼女はただ泣いていた。
泣いて泣いて、それが心の何かを落とすようにして、ようやく彼女は狂気の中の落ち着きを手にしていた。
ふと彼女は自分の右手の掌底辺りに何かがあることに気がついた。右手をゆっくり持ち上げると、そこには一本の赤い薔薇が掌底から生えていた。それはあの時もらった薔薇そのものだった。
(あぁ、あたし、やっぱ薔薇になっちゃうんだ…)
彼女はそう思うと同時に、腑抜けた笑いが喉の底からあがってきていた。最後の抵抗に、彼女はその薔薇を左手で抜こうとした。しかし、それは抜けそうで抜けなかった。いくら力を込めても、折ろうとしてもだめだった。
「くそぉっ!!」
余りに悔しくなり、思い切り左手を握りこぶしにして壁に叩きつける。音が響いたがそれだけで、右手の薔薇もそこにあり、シャワーの水も流れ続けていた。
そのまま固まっていた裕子だったが、不意に薔薇をもらったときの記憶が蘇り始めていた。
薔薇を女性からもらい、裕子は「ありがと」と言った。そして、あの時、何か妙な音がしたことを彼女は気づいた。
それは何かが抜ける音だった。何が抜けたのか、そして今彼女が抵抗していたものは何か。
(もしかして…)
それはただの自己満足かもしれなかった。それは彼女自身気づいてもいた。
しかし何もしないのは嫌だった。むしろ彼女にとってその根拠のないものは唯一の救いになり始めていた。
(この薔薇を抜くことができるのは、他の誰かだけ…。この薔薇を手に取れば、あたしは元に戻れる…!)
彼女の意思はもう固まっていた。裕子は誰かに薔薇を抜いてもらうため、体中をこれ以上侵食されないよう、厚着をして町にでかけていくことを決意したのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。