第二十七話:真・炎の初陣 ―大津・真空の逃走劇
大津びわこ特設バンクにおける「流体摩擦」の消失
滋賀県、琵琶湖の湖上に浮かぶ特設「水上バンク」。その鋼鉄の路面は、湖面から立ち昇る湿気によって常に微細な水膜に覆われている。通常のからくり自転車であれば、この水膜はタイヤのグリップを奪い、横風によるスリップを誘発する致命的な障害となる。
しかし、速水健吾が駆る新フレーム**『真・炎(SHIN-HOMURA)』**にとって、この環境はむしろ理想的な「冷却回路」と化していた。
* ライデンフロスト加速: スーツから放出される高周波のマブイ振動が、路面の水分を一瞬で蒸気化させ、タイヤと路面の間に極薄の蒸気層を形成する。これにより摩擦係数は理論上のゼロに近づき、機体は「転がる」のではなく「滑走」する状態へと転移する。
* 高周波駆動: 旧型の「爆発的燃焼」とは異なり、新コアはマブイを毎秒数万回の微細なパルスとして出力する。これが空気を分子レベルで切り裂き、前面投影面積における空気抵抗を劇的に低減させる「真空の道」を自ら切り開く
「構えろ!」
審判の号砲が響いた瞬間、大津の空気が震えた。
通常、GIの予選ともなれば、序盤は互いのマブイの出力を探り合う「牽制」が定石だ。特に重量級の鉄斎や、狡猾な算盤陣が揃うこのレースでは、誰もが後続の風避け(スリップストリーム)を利用しようと機を窺っていた。
だが、最短距離のインコースに陣取った速水健吾は、その定石を嘲笑うかのように、一掻き目から全出力を解放した。
「速水、行ったぁぁぁ! まだ残り二周半、青板のバックストレッチで早くもスパートだ!!」
実況の叫びがドーム内に反響する。背後で「ナメるな、速水ィ!」と吼える鉄斎が、重装甲スーツ『玄武』の排気口から黒煙を上げて追随しようとする。鉄斎のタックル間合いに入れば、健吾の軽量フレームなど一撃で粉砕されるはずだった。
しかし、健吾の加速は「次元」が違った。
新フレーム『真・炎』。その正体である磁性鉱石「龍の骨」が、健吾のマブイを一切のロスなく路面へと叩き込んでいた。ペダルを踏むという行為が、もはや物理的な運動ではなく、**「意志の放射」**へと昇華している。
「……なんだ、あの音!? 物理的な走行音じゃないぞ!」
後方で追走を試みていた算盤陣が、自身のセンサーに表示される異常数値に戦慄した。
健吾のスーツからは、これまでの「爆音」や「排気音」は一切聞こえない。代わりに響いているのは、キィィィィィン……という、空気を分子レベルで切り裂くような**「高周波の唸り」**。
健吾の視界では、景色が一本の鮮やかな光の線に伸びていた。
「思考」した瞬間に車体が前へ出る。
風の抵抗を感じる前に、熱が、マブイが、目の前の空間を焼き払い、抵抗そのものを消滅させていく。
「ハッ……ハハハッ! 回る、回るぞ! どこまでも、無限に!!」
健吾は笑っていた。全損を経て、一度は失ったはずの「走る歓喜」。それが、より純粋で、より鋭利な形で全身を駆け巡っている。
旧型の『炎』が「焚き火」だとすれば、今の『真・炎』は「レーザー光線」だ。一点に凝縮された熱量が、琵琶湖の重く湿った空気を一瞬で蒸発させ、彼を真空の中へと誘う。
最終コーナー。
後続の鉄斎や、虎視眈々と捲りを狙っていたトップレーサーたちが、死に物狂いでマブイを絞り出し、健吾の背中を追う。しかし、健吾との車間は縮まるどころか、一掻きごとに一メートル、二メートルと残酷に開いていく。
「逃げて、逃げて、逃げまくる! 速水健吾、もはや誰の手も届かない! まるで大津のバンクに、一本の消えない火線が走っているようだ!!」
健吾は一度も後ろを振り返らなかった。
ゴールラインを突き抜けた瞬間、あまりの通過速度に空気の壁が弾け、バォォォン! という凄まじい衝撃波が大津のバンクを揺らした。
* 1着:速水 健吾(阿蘇)
* 着差:大差(公式記録:12車身以上)
GIの予選において、これほどの着差がつくことは前代未聞である。それは競技という枠組みを超えた、圧倒的な「存在の証明」だった。
ゴールを過ぎ、ゆっくりとバンクを周回する健吾。
驚くべきことに、新スーツ『真・炎』からは、陽炎すら立ち昇っていなかった。
「全損点火」の時は、余剰熱量が外部へ溢れ出し、健吾自身を焼き殺そうとしていた。しかし、算盤の理論を源さんが具現化したこの新システムは、すべての熱を「推進力」へと完璧に変換していたのだ。
スーツは、驚くほど静かに、そして冷徹にその役割を果たしていた。
検車場に戻った健吾を、巨漢・鉄斎が、重装甲スーツのバイザーを上げたまま呆然と見つめていた。
「……バカな。俺のタックルの間合い、あの『玄武引力』の圏内にすら、一度も入れなかっただと……? 掠りもしない。そんな競輪があるか……」
健吾は静かにヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭うこともせず、モニター越しに阿蘇から見守る源さんにニヤリと笑いかけた。
「源さん、調整は大成功だ。こいつは……もう『自転車』じゃねぇ。俺の『マブイそのもの』だぜ。俺が思えば、世界が後ろに流れていくんだ」
初戦を、歴史的な「真空の大逃げ」で制した速水健吾。
そのニュースは、瞬く間に全国のからくり競輪ファン、そして出場選手たちの間に駆け巡った。
しかし、この「あまりの速さ」は、他の選手たちを戦意喪失させるどころか、彼らの眠っていた「闘争本能」に油を注ぐ結果となった。
「速水健吾……。お前の『青い火』、俺の『黒い炎』でどちらが本物か、教えてやる」
宿命のライバル、不知火焔が、検車場の暗がりから健吾の背中を凝視していた。
さらには、準決勝で激突する「近江の荒法師」たちが、健吾の「綺麗な加速」を物理的に粉砕するための、より凶悪な「からくり」を準備し始めている。
琵琶湖の夜は、まだ始まったばかりだ。
準決勝。そこは「速さ」だけでは生き残れない、からくり競輪の真髄――「殺し合い(バトル)」の場へと変貌していく。




