第二十六話:『真・炎』の産声 ―大津の微調整―
大津びわこ競輪場跡地・特設「水上バンク」の構造
滋賀県大津市。かつて「からくり競輪」の聖地の一つとして数えられた大津びわこ競輪場。その跡地に建設された特設バンクは、琵琶湖の湖面上に浮かぶ巨大な鋼鉄の浮体構造物である。このバンクは、通常の競輪場とは一線を画す「魔境」としての特徴を備えている。
「びわこ颪」の不規則性: 比叡山系から吹き下ろす突風が、湖面を抜けてダイレクトにバンク内へと侵入する。この風は秒単位で向きを変え、選手の走行ラインを数センチ単位で狂わせる。
高湿度のマブイ伝導: 湖上の高湿な空気は、マブイ(精神エネルギー)の伝導率を異常に高める。これにより、選手同士の「威圧感」が物理的な重圧となって肌を焼き、センサー類には常に過負荷のノイズが走る。
「すり鉢型」の超高速バンク: 400メートルバンクでありながら、コーナーの傾斜が極めてきつく設定されており、遠心力を利用した「捲り(まくり)」の威力が倍増する反面、一度バランスを崩せば水上の奈落へと叩きつけられる恐怖が付きまとう。
特設バンクに隣接する仮設検車場。波の音が足元から響く中、速水健吾は自らの新しい半身、『真・炎(SHIN-HOMURA)』と対峙していた。
「……源さん、左クランクのトルクセンサーが、俺の鼓動とコンマ数秒ズレてる。この『不知火の残滓』、反応が速すぎるんだ」
健吾はタブレットを片手に、スーツの各接合部や、黒光りする磁性フレームに精密センサーを当てていた。全損を経て再構築された新コアは、以前のような「燃焼」ではなく、磁場を操る「超伝導」に近い挙動を見せている。
新フレームの熱伝導率は、旧型の比ではない。健吾が心の中で「加速したい」とわずかに念じるだけで、中枢ユニットがその神経パルスを読み取り、筋肉が動くよりも先にペダルへ駆動力を伝えてしまう。
この**「思考と駆動のゼロ距離同期」**。
それは理論上の理想ではあるが、実戦においては諸刃の剣だ。わずかな迷いや、敵に対する恐怖心がノイズとして混入すれば、スーツは自壊を厭わぬ暴走を始める。健吾の右腕の震えは止まっていないが、それは恐怖ではなく、溢れ出す出力を抑え込むための「反動」だった。
「……相変わらず、危なっかしいスーツね、速水」
隣の検車台で、自身のスーツ『潮騒(SHIOSAI)』のフィンを微調整していた那須妙子が、呆れたように声をかけた。彼女のスーツもまた、琵琶湖の不規則な風に対応するため、空気抵抗を極限まで減らす「翼」のようなカウルが追加されている。
「全損したはずのコアを、よくそこまで組み上げたものだわ。でも、高松宮は『力』の戦場よ。その繊細なシンクロが、鉄斎のような暴力的な重圧の前に、どこまで耐えられるかしらね」
離れた場所で、無数のホログラム計算機を叩いている算盤陣も、眼鏡の奥の冷徹な視線を健吾に向けた。
「僕の計算によれば、君の今のスーツは『制御』を前提としていない。出力を100%解放すれば、フレームそのものが磁性崩壊を起こす確率は64%。……速水。君がまた『爆弾』になれば、今度は僕も那須も、君を救う計算式は持ち合わせていないよ」
算盤の言葉は突き放すようだが、そのモニターの一角には、健吾のスーツの負荷を軽減するための「共鳴支援プログラム」の草案が隠されていた。
「健吾、いいか。そのスーツに『乗ろう』とするな。お前のマブイを『流し込む』んだ。お前自身がフレームの一部、龍の骨の一部にならなきゃ、その青い熱に焼き殺されるぞ」
通信回線を通じて、阿蘇の不破源さんの野太い声が響く。
健吾は深く息を吐き、スーツの脊髄(背骨)部分にある、マブイの流量を物理的に制限するリミッターボルトを数ミリだけ開放した。
「……分かってる。こいつは、俺の命の器だ。……よし、調整完了」
健吾が軽くクランクを回した。
その瞬間、検車場内に「キィィィィィン」という、空気を切り裂くような、しかしどこか悲鳴にも似た鋭い電子音が響き渡った。
それは、からくり競輪の歴史上、どの選手も発したことのない「魂の摩擦音」だった。
その異質な音を聞きつけ、検車場の奥から、一人の巨漢がゆっくりと姿を現した。
歩くたびに鋼鉄の床が沈み込み、凄まじい「重圧」が空間を支配する。
「……それが新しい『火遊び』か。速水健吾、小倉での奇跡がここでも通用すると思うなよ」
北陸の雄、鉄斎。
彼の纏う重装甲スーツ『玄武(GENBU)』は、最新の軽量化トレンドを真っ向から否定する、文字通りの「移動城塞」だ。全身に配置された重力制御用バラストが、彼の周囲に強力な引力圏を形成している。
「高松宮のバンクは、お前の小細工ごと粉砕してやるわ。この近江の荒波で、お前の青っ白い火がどれだけ保つか……試してやる」
鉄斎の放つ圧倒的な「物理的重圧」が、健吾の『真・炎』から漏れ出す青い陽炎と激突。
物理的な接触がないにもかかわらず、二人の間にある空気がバチバチと放電し、空間が歪むほどの火花が散った。
鉄斎の背中を見送りながら、健吾は自身の右手の震えが止まっていることに気づいた。
(……こいつだ。この重圧、この熱。……やっぱり俺は、ここでしか生きていけねぇ)
琵琶湖の湖面上に浮かぶ、巨大な「すり鉢」。
吹き荒れるびわこ颪。
かつての「太陽」は沈み、今、冷徹で鋭い「青い極光」が、近江の夜空にその産声を上げようとしていた。
「行くぜ、親父。源さん……。俺の新しい命、ここで証明してやる」
翌朝、第1レース。
速水健吾の「第二の人生」が、波立つ琵琶湖の上で開幕する。




