第二話:地獄の学校生活
2036年「からくり競輪」の競技規則
西暦2036年。公営競技としての競輪は、人機の融合による超次元スポーツ「からくり競輪」へと変貌を遂げていた。その根幹を成すのは、選手の精神エネルギーを物理的な駆動力に変換する「魂変換システム」である。
本編に入る前に、鉄魂学園で叩き込まれる基本ルールを整理する。
マブイ・ドライブ(魂駆動):選手は脊髄インターフェースを介して自転車と直結する。脚力によるペダリングは「補助」に過ぎず、主動力は背中の「外付マブイタンク」から供給されるエネルギーである。
ライン(魂の連結):従来の競輪同様、数名が列を作る。先頭(自力選手)が風を切り、後続(番手・三番手)がそのスリップストリームを利用する。からくり競輪では、ライン内でマブイを共有・譲渡する「マブイ・リンク」が可能であり、戦略の核となる。
ギア倍数制限:通常の競輪よりも遥かに巨大な大ギア(大直径の歯車)の使用が許可されているが、それを回すには膨大なマブイ出力が必要となる。
失格事項:故意の接触、斜行に加え、「マブイの逆流」による他走者のシステム破壊は厳罰に処される。
鉄魂学園、煉獄の三ヶ月
「貴様ら、今日から人間であることを捨てろ。これからは、この300キロの鉄塊の一部として生きるのだ」
静岡の擂鉢の底、鉄魂学園に入学してからの三ヶ月間。速水健吾を待っていたのは、想像を絶する「からくりの部品」と化すための地獄の日々であった。
毎朝午前4時。
下界が深い眠りについている頃、極寒のバンクには100名の生徒たちの、獣のような咆哮が響き渡る。
朝一番の訓練は、通称「魂練」。これは自転車に乗って走る訓練ではない。固定された重さ500キロの巨大な「魂練用フライホイール」にスーツを接続し、「静止状態でゼンマイを巻き続ける」という拷問に近い精神鍛錬だ。
「外部タンクの使用を禁ずる! 自らのコアマブイだけで、仮想時速60km相当の負荷を回し続けろ!」
鬼教官の怒声が飛ぶ。
健吾の背中には、インターフェースとの摩擦と熱でできた、消えない「火傷」のような紋様が幾重にも刻まれていった。マブイの供給がわずかでも不安定になれば、スーツの安全装置が弾け、全身に数万ボルトの強制放電が走る。
「……ぐ、あああああッ!」
隣の生徒が白目を剥いて崩れ落ちる。マブイを絞り尽くされた肉体は、文字通り抜け殻だ。
健吾は歯を食いしばり、意識の混濁の中で兄・誠の言葉を反芻する。
(……回せ。止めるな。淀んだ水は腐るが、回転する魂は熱を生む……!)
彼のコアマブイ2500は、この「魂練」の最中、不気味な脈動と共にその色をより深い「血の赤」へと変えていった。
訓練が終わると、這うようにして食堂へ向かう。
提供されるのは、最新の栄養学と霊学に基づき精製された「高濃度マブイ食」だ。見た目は無機質なゼリー状の塊だが、一口食べれば内臓が焼けるようなエネルギーを感じる。
しかし、極限までマブイを搾り取られた生徒たちの胃袋は、それを受け付ける拒絶反応を起こす。
「……食わなきゃ、明日がねえ……」
健吾は震える手でスプーンを握り、無理やり喉に押し込む。隣では、マブイを使い果たして「もぬけの殻」になった生徒が、食事の途中で力尽き、机に顔を伏せて眠り込んでいた。通称「魂落ち(マブイおち)」だ。
一方、その対面で優雅に食事を摂る男がいた。算盤陣である。
彼は常に自身のマブイ消費を「理論上の最小効率」に抑えているため、訓練後も顔色一つ変えない。
「無様だね、速水。君の燃焼効率は、暖炉にガソリンを注いでいるようなものだ。どんなに高出力でも、その9割は熱として逃げている。データの無駄遣いだよ」
算盤は手元の端末を操作し、健吾の「非効率なグラフ」をホログラムで投影して鼻で笑う。
健吾は言い返さない。ただ、黙々とゼリーを噛み砕く。その瞳には、算盤の計算機では決して弾き出せない「濁った炎」が宿っていた。
午後は一転して、静寂の中での整備実習となる。
「からくり競輪」において、メカニックは自分自身だ。自らの脊髄を通る信号が、どのギアを、どのタイミングで、どれだけのトルクで回すのか。それを完全に把握しなければ、プロの時速150キロの世界では一瞬で分解バラになる。
健吾のピットは、他の生徒とは異彩を放っていた。
彼は、兄・誠から教わった「水の抵抗を減らす流体力学」を、この鉄の塊に応用しようと試行錯誤していたのだ。
「風を斬るんじゃない。風を、後ろに『流す』んだ……」
さらに、健吾は独自の工夫を施していた。
故郷・九州の阿蘇から取り寄せた火山岩。それを細かく砕き、独自の配合で作った研磨剤。これでギアの噛み合わせ面をあえて「粗く」磨く。
「ツルツルのギアじゃ、俺の荒いマブイは滑っちまう。一度噛み合えば二度と離さない。泥臭くて、ザラついた、俺のためのギアだ」
この「火山岩研磨」こそが、のちに彼の二つ名「阿蘇の噴火」を支える、独自の駆動システムへと進化していくことになる。
消灯ラッパが鳴り響いた後、学園は死んだように静まり返る。
だが、健吾は一人、月明かりに照らされた闇のバンクに忍び込む。そこには、同じように「居残り」をする影があった。
「……おい、山口の。お前のマブイ、汚ねぇけど熱いな」
闇の中から声をかけてきたのは、大文字剛。鹿児島から来た、熊のような体躯の男だ。のちに「鹿児島の暴君」として九州地区を統べることになる男である。
大文字は、自転車のフレームに重りをこれでもかと括り付け、純粋な「力押し」の練習をしていた。
二人は言葉を交わさない。
ただ、夜風を切る「シュン……シュン……」という駆動音だけを響かせて並走する。
1周、10周、50周。
月が頂上に達する頃、大文字が不敵に笑った。
「兄貴は水の上だが、俺はここの土が気に入ってるんだ。速水、お前もそうだろう?」
「……ふん。せいぜい焼き付いて死ぬなよ、大文字」
エリートである算盤陣には決して理解できない、泥を舐め、鉄を噛む者同士の、言葉を超えたシンクロ。
ライバルたちが、単なる「競う相手」から「同じ地獄を歩む戦友」へと変わっていく夜だった。
訓練の中盤、ついに初めてのタイム計測「第一回公式記録会」が行われた。
学園関係者だけでなく、プロのスカウトたちも影で注目する重要な一戦だ。
算盤陣は、宣言通り「理論上の完璧なタイム」を叩き出した。
無駄のないライン取り、一定のケイデンス。彼は、自身のマブイを1%の狂いもなく時間内に配分し、当時の学園記録を塗り替えた。
「これが正解だ。わかるかい、速水?」
健吾の番が来た。
彼はスタートラインに立つと、脊髄の端子をこれまでにない深さで直結させた。
(……算盤の言うことは正しい。だが、正しいだけじゃ、兄貴の背中には届かない)
「発走!」
その瞬間、健吾は禁断の技術を解禁した。
「マブイの過給」。
背中のタンクの安全弁を強制的にロックし、体内のコアマブイを循環させずに一気に燃焼させる捨て身の走法だ。
「ガガガッ、ドォォォォンッ!!」
スーツの排気弁から青白い炎が噴き出し、健吾の視界が真っ赤に染まる。
脳内の血管が悲鳴を上げ、全身の毛細血管が浮き出る。
時速80km……100km……120km……!
計測器が処理能力を超えてエラーを吐き出すほどの瞬間速度。
「回れ……俺の魂! 兄貴を超えて、その先へ行けえええ!」
ゴールラインを通過した瞬間、凄まじい爆発音と共に健吾の自転車のリアタイヤがバーストした。
スーツはオーバーヒートで白煙を上げ、健吾の体は放り出されるようにバンクの最下部へ叩きつけられた。
病院のベッドで目覚めた健吾の視界に映ったのは、無機質な天井と、傍らに立つ鬼教官の姿だった。
「目が覚めたか、大馬鹿野郎」
教官の声には、怒りと共に、かすかな畏怖が混じっていた。
「タイムは算盤をコンマ5秒上回った。だが、代償として貴様のスーツはスクラップだ。そして、あと一秒過給を続けていれば、貴様の心臓は止まっていただろう」
教官は健吾の胸元、コアマブイが収まる位置を指差した。
「速水、貴様のコアマブイは2500を超え、今や3000に届こうとしている。だが、今の貴様はただの『導火線の短い爆弾』だ。制御できなければ、プロのバンクに上がる前に、貴様自身の火で焼き尽くされて死ぬぞ」
健吾は、包帯に巻かれた自分の右拳をじっと見つめた。その中には、確かにあの瞬間、風を殺し、鉄を支配した感覚が残っている。
「……死にゃしませんよ。俺のマブイは、まだ回りたいって言ってるんだ」
窓の外には、巨大な擂鉢の絶壁が夕日に赤く染まっていた。
その影で、算盤陣が自身のデータを捨て去り、震える手で健吾の走りを分析し直していることを、彼はまだ知らない。
これが、のちに伝説となる「阿蘇の噴火」――速水健吾の、地獄の三ヶ月目の到達点であった。




