第5話
新幹線の駅から私鉄に乗り継ぎ、さらにバスに揺られて辿り着いたその街は、驚くほど平凡で、驚くほど僕たちに無関心だった。
築三十年、家賃四万二千円の木造アパート。壁紙はところどころ剥がれ、建付けの悪い窓からは常に細い隙間風が忍び込んでくる。かつて「柊グループの聖女」が暮らしていた豪邸のトイレよりも狭いこのワンルームが、今の僕たちの全世界だった。
「ねえ、佐藤くん。この『カップ焼きそば』って、お湯を切るタイミングを間違えると致命的なことになるのね。今、私の人生で最大の危機に直面しているわ」
安物のスウェットに身を包み、床にぺたんと座り込んだ有栖が、真剣な顔でカップ麺の容器を見つめている。
かつての清楚なまとめ髪は解かれ、少し乱れた髪が彼女の白い首筋に張り付いている。
「三分ですよ、柊さん。いや……今は『田中さん』でしたっけ」
「……そうね。田中、有栖。なんだか、どこにでもある名前ね。すごく、いい響きだわ」
有栖はふふっと笑い、慣れない手つきでお湯を捨てに行った。
卒業式から一週間。
僕たちは、あの狂騒の式場から逃げ出したその足で、あらかじめ用意していた潜伏先へと向かった。
もちろん、柊家が本気を出せば僕たちの居場所を突き止めることなど造作もないだろう。けれど、あの日、全校生徒と来賓、そして地元の名士たちの前であれだけの醜態を晒したのだ。名誉を重んじる柊の会長にとって、今の有栖は「取り戻すべき娘」ではなく「存在してはならない汚点」に変わったはずだ。
追っ手は来ない。
もし来るとすれば、それは連れ戻すためではなく、物理的な抹殺か、あるいは「二度と顔を見せるな」という最終通告のためだろう。
テーブルの上には、使い古された通帳と、有栖が持ち出した三千万円分のキャッシュカードが置いてある。
「三千万。……これだけあれば、僕たちが大学を卒業して、当分の間食いつなぐには十分すぎる額ですね」
「ええ。でも、それだけじゃ足りないわ」
「え?」
「このお金は、ただの『命の引き換え券』よ。私たちがこれから手に入れなきゃいけないのは、お金で買えるものじゃない。……例えば、誰の顔色もうかがわずに笑うこととか、お腹が空くまで眠ることとか」
有栖は出来上がった焼きそばを啜り、「しょっぱいわね」と眉を寄せた。その顔は、学園で見せていたどんな慈愛の微笑よりも、ずっと人間臭くて愛おしかった。
あの日、彼女が叫んだ「妊娠」という嘘。
それは、彼女を政略結婚という商品棚から引きずり下ろすための、最悪で最高の毒薬だった。
「……お腹の子、どうしましょうか。いつか『流産した』ってことにしますか?」
「いいえ。ずっと私たちの『秘密の嘘』として飼っておきましょうよ。いつか、本当に欲しくなるその日まで」
有栖は僕をじっと見つめた。
その瞳には、かつての冷たい諦念はもうなかった。
「ねえ、佐藤くん。……いえ、健人くん」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「最悪の卒業式だったわね。私たちの人生、あの日であれだけ綺麗に積み上げたものが全部、文字通り死んだのよ」
「そうですね。僕も、親からは縁を切るってメールが来ました。友達も一人もいなくなりましたよ。文字通り、社会的な死です」
「……ふふ。ああ、本当に。人生で一番最高の日だったわ」
有栖は窓際へ歩み寄り、建付けの悪い窓を力任せに開けた。
冷たいけれど、どこか春の匂いが混じった風が部屋の中に流れ込む。
窓の外には、見知らぬ街の景色が広がっていた。
どこまでも続く住宅街、遠くに見える線路、そして、どこまでも高く、広い空。
そこには、僕たちを縛るカーストも、期待も、血筋も、役割も存在しない。
僕たちは「何者でもない二人」になったのだ。
社会的には死んだ。
戸籍上は存在していても、僕たちの「柊有栖」と「佐藤健人」としての物語は、あの日、体育館の壇上から飛び降りた瞬間に完結したのだ。
けれど。
死んだ後の世界は、想像していたよりもずっと明るかった。
僕は彼女の隣に並び、一緒に空を見上げた。
僕の透明だった人生に、彼女が鮮やかな色をつけてくれた。それがたとえ、世間からは後ろ指を指されるような色だったとしても、僕にとってはこれ以上ないほど美しい色だ。
「さて、死んだ後の予定はどうする?」
僕が問いかけると、有栖は僕の肩に頭を預けてきた。
今度は、震えていなかった。
確かな生命の熱が、そこにはあった。
「決まってるわ」
彼女は悪戯っぽく、けれど誰よりも純粋な少女の顔で笑った。
「――恋でもしましょうよ、健人くん。今度は、誰にも内緒じゃない、本当の恋を」
春の光が、二人の影を狭い部屋の中に描いていた。
僕たちの新しい人生は、今、ここから始まる。
読んで頂きありがとうございました!




