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聖女の君と背景の僕の社会的心中  作者: こうと


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第4話

三月、春の陽光は残酷なほどに明るかった。

 体育館を埋め尽くす白い百合の香りと、卒業生たちの涙。それは、完成されたシステムの終焉を祝う儀式だった。


 最前列の来賓席には、この街の「支配者」たちが並んでいる。柊有栖の父、柊グループ会長。そしてその隣には、有栖の婚約者候補とされる男、一条いちじょうの姿があった。都内の名門大学に通う、眉目秀麗で非の打ち所のないエリート。彼もまた、有栖を「トロフィー」の一つとして手に入れることを疑っていない、傲慢な勝利者の顔をしていた。


 僕は、体育館の最後列。名簿順の最後の方で、その光景をぼんやりと眺めていた。

 背景モブにふさわしい、誰の視線も届かない場所。

 けれど、僕のポケットの中には、彼女から預かった「約束」が重く沈んでいた。


「――卒業生総代、柊有栖」


 校長の声が響き、有栖が檀上へと歩み出る。

 一歩一歩。彼女の背筋は凛と伸び、純白の制服が春の光を反射して輝いている。全校生徒が息を呑む。そこにいるのは、誰もが憧れ、誰もが跪くべき、学園の聖女そのものだった。


 有栖はマイクの前に立ち、用意されていた答辞の原稿を広げた。

 けれど。


 彼女は、その原稿を読まなかった。

 それどころか、丁寧に折りたたまれた紙を、まるでゴミでも捨てるかのように足元へ落とした。

 マイクが、紙の落ちる乾いた音を拾う。会場に小さなざわめきが広がった。


「……皆様、本日まで三年間、温かいご指導をありがとうございました」


 凛とした声だった。スピーカー越しでもわかるほど、透き通った、けれど決意に満ちた声。

 有栖はゆっくりと視線を巡らせ、来賓席の父と、一条を真っ直ぐに見据えた。


「ですが、私は今日、皆さんに嘘をついたままこの門を出ることはできません。……柊家の娘としてではなく、一人の女として、告白したいことがあります」


 会場が、水を打ったように静まり返る。

 有栖は、最後列にいる僕を見つけた。そして、今までに一度も見せたことのない、蠱惑的こわくてきで、どこか狂気を孕んだ笑みを浮かべた。


「私は、あそこに座っている佐藤健人くんを愛しています。……そして、彼との間に新しい命を授かりました。私は、彼の子を身ごもっています」


 一瞬。

 世界が静止した。


 次の瞬間、体育館は地鳴りのような騒然に包まれた。

 悲鳴、怒号、椅子が倒れる音。

 一条が目を見開き、信じられないものを見るように立ち上がる。柊の会長は、顔を真っ赤にして絶句し、震える指で檀上を指差した。


「有栖! 何を……何を言っているんだお前は!」


 父親の咆哮を、有栖は涼しい顔で受け流した。

 彼女はマイクを放り投げると、檀上の端へと走り寄る。


「佐藤くん!」


 僕は立ち上がった。全校生徒の、そして教師たちの、憎悪と混乱に満ちた視線が僕に集中する。

 いい気分だ。透明だった僕の人生に、ようやく世界中が色を塗りたくってくれた。それは真っ黒な、救いようのない泥の色だったけれど。


「行こう、有栖!」


 僕は人混みをかき分け、檀上の下まで走った。

 有栖は迷うことなく、高い檀上から僕の胸へと飛び込んできた。


 衝撃。そして、彼女の冷たかった体が、今は驚くほど熱い。

 着地した瞬間、僕たちは手を取り合い、出口へと走り出した。


「追え! 捕まえろ! その男を殺しても構わん!」


 背後で、会長の狂ったような声が響く。一条の、プライドを粉々に砕かれた絶望の叫びが聞こえる。

 けれど、それらはすべて、遠い世界の出来事のように思えた。


 僕たちは体育館の重い扉を蹴破り、春の光の中へと飛び出した。


「はは、あはははは!」


 走りながら、有栖が声を上げて笑った。

 涙を流しながら、子供のように、残酷なほどに無邪気に。


 これで終わりだ。

 彼女が大切に守ってきた「聖女」のブランドは死んだ。柊家の令嬢という価値は、今この瞬間、マイナスへと転落した。一条との政略結婚も、未来の約束も、すべてがゴミのように捨てられた。

 そして僕もまた、学園のアイドルを汚し、妊娠させたという最悪のスキャンダルを背負い、この街での社会的居場所を完全に失った。


 社会的な心中。

 僕たちは、自分たちの人生を一度殺したのだ。


「佐藤くん、見て! 誰も私たちを見ていないわ!」


 振り向いた有栖の顔は、泥に塗まみれたまま輝いていた。

 誰も、もう彼女を「柊家の娘」としては見ない。ただの、醜聞にまみれた堕落した少女として見る。

 けれど、その絶望的な眼差しこそが、彼女が欲しがっていた「自由」の正体だった。


「ああ、最悪だな。……最高に、気分がいい」


 僕たちは校門を突き抜け、駅へと続く坂道を駆け下りる。

 背後に残してきたのは、秩序と、期待と、息苦しい愛の牢獄。


 手の中に、彼女の確かな熱がある。

 これからどこへ行くのか、どうやって生きていくのか、三千万で足りるのか。

 そんなことはどうでもよかった。


 僕たちは死んだ。

 そして今、世界で一番惨めな姿で、初めて「生きて」いた。


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