第3話
インクは完全に水の色を変えた。
柊有栖という清冽な泉に、僕という濁った墨汁が混じり合った結果、学校内の空気は目に見えて濁っていた。
下駄箱を開ければ、中身のない嫌がらせのメモや、使い古された消しゴムの屑が溢れ出す。教科書には「身の程を知れ」という、これまた手垢のついた罵倒が躍っていた。
かつて透明な「背景」だった僕は、今や学園の聖女を汚す「害虫」として再定義されたわけだ。
「……ひどい顔ね。少しは傷ついているの?」
放課後、人目を忍んで合流した非常階段の踊り場で、有栖がクスクスと笑った。
彼女は僕の机に書かれた落書きのことなど、とうに知っている。それどころか、その空気を作り出した張本人だ。
「傷つくほど、自分の居場所に期待してませんよ。それより、予定通りに外堀は埋まってますか?」
「ええ。完璧よ。親からはもう三回も着信があったわ。今夜あたり、実家の『掃除屋』があなたの身辺を調べ始めるはず。……ねえ、佐藤くん。怖くないの?」
有栖は僕の顔を覗き込む。その瞳には、共犯者への憐れみと、自分を破滅へと導く者への執着が混ざり合っていた。
「怖いですよ。でも、それ以上に腹が立ってるんだと思います」
「腹が立っている? 私に?」
「いいえ。君を『柊』という箱に詰め込んで、中身の『有栖』を無視して値踏みしている連中に、です」
僕は窓の外を見つめた。
僕の人生はずっと透明だった。誰にも見られず、誰にも期待されず、ただ存在しているだけの背景。一方で彼女は、眩しすぎる光の中に置かれ、その実体を見失わされている。
どちらも、「そこに個としての人間がいる」ことを無視されている点では同じだった。
彼女が駒として扱われることに感じる怒りは、僕が自分の透明な人生に対して抱いていた、名付けようのない空虚さと地続きだった。
「……あなたって、時々本当に変なことを言うわね」
有栖は少しだけ寂しそうに笑うと、バッグから高性能な一眼レフカメラを取り出した。
「さあ、今夜が山場よ。トドメの『証拠写真』を撮りに行きましょう」
夜の八時。僕たちは街外れにある、街灯もまばらな公園にいた。
ここなら、柊家の偵察班が「偶然」僕たちを目撃し、写真を撮るには絶好のロケーションだ。有栖はわざわざ、家政婦に怪しまれるような派手なコートを着て家を抜け出してきたという。
けれど、ベンチに座った僕たちの間に流れる空気は、スキャンダルを偽造するギスギスしたものではなかった。
冬の夜気は鋭く、吐き出す息は白く濁って消えていく。
「ねえ、佐藤くん。どうして私を助けるの?」
ふいに、彼女が核心を突いてきた。
「お金のためだけじゃないでしょう。あなたは、もっと別の……何かを見ている気がする」
「……言ったでしょう。腹が立っているんだと。僕は背景ですが、背景にも意地があるんです」
「嘘ね」
有栖は僕の腕を掴み、そのまま肩に頭を預けてきた。
震えていた。芝居の練習の時よりも、ずっと小さく、激しく。
「……私、怖いの。本当は、自分が空っぽになるのが」
「……」
「柊有栖という看板を下ろした後に、何にもなれなかったら? 価値がゼロになった私のことを、誰も、あなたさえも見てくれなかったら? ……そう思うと、足元が崩れそうになる」
彼女の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
聖女の仮面も、復讐者の強がりも剥がれ落ちた、ただの十七歳の少女の顔だった。
「自由になりたい。柊の娘じゃなく、ただの『有栖』として……一度だけでいいから、自分の足で立ちたいの。たとえそれが、社会的な死を意味するとしても」
彼女の声は、冬の寒さに凍え、今にも壊れそうだった。
僕は反射的に、その細い肩を抱き寄せていた。
彼女は駒ではない。ましてや、僕の退屈を紛らわせるための道具でもない。ここにいるのは、必死に自分の輪郭を守ろうとしている、一人の剥き出しの魂だ。
「……有栖」
初めて名前で呼んだ。
彼女が驚いたように顔を上げる。その瞳に映っているのは、背景の僕ではなく、彼女の孤独を共有しようとする一人の男だった。
「価値なんて、他人が決めることじゃない。……少なくとも僕は、君が空っぽだなんて思わない」
どちらからともなく、距離が詰まった。
これは「偽造」のための演出ではない。
誰に見せるためでもない、僕たちだけの意志。
唇が重なった瞬間、世界から音が消えた。
冷たい空気の中で、彼女の唇だけが驚くほど熱かった。
それは、絶望の淵でようやく見つけた、たった一つの確かな感触。
有栖の手が、僕の背中に回される。
痛いほどに強く、縋るように。
どれくらいそうしていただろう。
不意に、遠くの植え込みでカシャリ、という小さな機械音が響いた。
僕たちはゆっくりと唇を離した。
有栖は濡れた瞳で僕を見つめ、それから闇に紛れた「観客」の方を向いて、勝ち誇ったような、けれどどこか泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「……撮られたわね」
「ええ。最高の不倫……じゃなかった、不純異性交遊の証拠写真ですよ」
僕が冗談めかして言うと、彼女は僕の胸に顔を埋めた。
「ねえ、今の……今のだけは、あいつらには渡したくない」
「わかっています。あれは僕たちだけのものです」
偽造された純愛の物語に、一滴の本物が混じってしまった。
それがこれから始まる破滅を加速させるのか、それとも救いになるのか。
僕たちはまだ、それを知らない。
ただ、夜の公園を去る僕たちの手は、指先が白くなるほど強く結ばれていた。




