第2話
噂というものは、水面に落とした一滴のインクのように、静かに、けれど確実に「背景」の色を変えていった。
翌日から、柊有栖は露骨に僕に関わり始めた。昼休みに僕の席までやってきて、誰もが羨む微笑みで「佐藤くん、今日も図書室?」と声をかける。ただそれだけのことで、僕に向けられるクラスメイトの視線は、無関心から「不快な違和感」へと変貌した。
けれど、柊有栖というブランドはあまりに強固だった。
一週間が過ぎても、周囲の反応は「柊さんが気まぐれに背景モブをからかっている」という認識の域を出ない。彼女の親――柊家の連中に至っては、報告すら届いていないだろう。
「生ぬるいわね」
放課後。人気のない図書室の最奥、古い全集が並ぶ資料室の影で、有栖は吐き捨てるように言った。
彼女は窓際にある備え付けの椅子に、およそ聖女とは思えない行儀の悪さで足を組んで座っている。その手には、放課後の買い食いなど厳禁されているはずの彼女が、どこで手に入れたのか「コンソメ味のポテトチップス」の袋が握られていた。
「ただの仲良しごっこじゃ、あの人たちは動かない。必要なのは『汚濁』よ。汚れを知らない柊家の宝物が、どうしようもない人間に泥を塗られているという、救いようのない絶望感」
「……ポテチ、粉がこぼれてますよ。聖女様」
「うるさいわね。学校じゃハーブティーとマドレーヌしか許されないのよ。これくらい食べないと脳が死ぬわ。ほら、あなたも食べなさいよ。安い油の味がして最高よ」
彼女は指先に付いたオレンジ色の粉を、行儀悪く舌で舐めとった。その仕草には、クラスで見せる清楚な魅力とは正反対の、毒々しい艶つやがあった。
これが彼女の「素」なのだ。家柄という鳥籠の中で、ジャンクフードと悪口を栄養にして、辛うじて理性を保っている一人の少女。
「それで、どうするんです。ただ付き合っているフリをするだけじゃ足りないんでしょう?」
「ええ。だから今日から『練習』よ。佐藤くん、もっと私に不遜ふそんになりなさい」
「不遜?」
「そう。私があなたを追いかけているんじゃなくて、あなたが私を『所有』しているように見せるの。逆転した力関係。それが一番、親の神経を逆なでするわ」
有栖は椅子から立ち上がり、僕の目の前まで歩み寄った。
そして、僕の手を強引に引き寄せ、自分の腰に回させた。
「……何してるんですか」
「練習だって言ったでしょう。誰かに見られたとき、反射的に私を抱き寄せられるくらいになっておいて。ほら、もっと強く」
制服越しに伝わってくる彼女の体温は、驚くほど低かった。
冬の風をそのまま閉じ込めたような、あるいは命を削って輝いている氷細工のような冷たさ。
僕は困惑しながらも、言われた通りに彼女の腰を引き寄せた。細い。折れてしまいそうなほど、頼りない質量。
「佐藤くん、顔が硬いわ。もっとこう……私を安物みたいに扱うような、見下した目をして」
「注文が多いな。僕はただの背景ですよ」
「背景のくせに、私の裸なかみを知っている。その優越感を引き出しなさい」
彼女は僕の首に手を回し、爪先立ちになって顔を近づけてくる。
鼻先が触れそうな距離。吐息が混じり合う。
有栖の瞳は、獲物を値踏みするような鋭さを保ったまま、けれどどこか震えていた。
「ほら、顎あごをクイってして。ドラマみたいに」
「……こうですか?」
僕は彼女の細い顎に指をかけ、無理やり上を向かせた。
その瞬間、彼女の瞳に一瞬だけ、年相応の動揺が走ったのを僕は見逃さなかった。
完璧な演技。完璧な計画。けれど、彼女の肌は震え、呼吸は浅くなっている。
「……いいわ。その不遜さよ、佐藤くん。もっと私を壊すつもりで接して」
「柊さん」
「……何?」
「君、本当は怖いんじゃないんですか。こんなことして、本当に後戻りできなくなってもいいのかって」
僕の問いに、有栖は自嘲気味な笑みを浮かべた。
彼女は僕の胸に額を預け、掠れた声で呟く。
「後戻りなんて、最初からできないわ。私のレールは、生まれた時から終着駅が決まっているの。そこに辿り着く前に、列車ごと脱線したいだけ……たとえ、その先に何もなくても」
その言葉は、誰にも届かない悲鳴のように聞こえた。
彼女を縛る柊家という巨大なシステム。そこから逃れるためには、自分自身を徹底的に破壊し、価値をゼロにするしかない。その「心中」の相手に、僕という無価値な人間が選ばれた。
抱きしめた彼女の体は、あまりに冷たく、そして孤独だった。
まるで、凍りついた湖の底で一人、誰かに見つけられるのを待っているかのような。
「わかった。君がそこまで望むなら、僕は最高の『悪役』を演じますよ」
「期待しているわ。……ねえ、佐藤くん。もう一度だけ、さっきのポテトチップスを口に入れて。今度は、あなたが私に食べさせて」
「は?」
「あーん、して。命令よ」
彼女は悪戯っぽく、けれどどこか切実な瞳で僕を見上げた。
僕は溜息をつき、袋の中に残っていたポテトチップスを一枚取り出した。
彼女の唇にそれを運ぶ。指先が柔らかい粘膜に触れた瞬間、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴った。
芝居。これはただの芝居だ。
三千万という報酬のための、そして彼女の自由のための、偽りのラブコメディ。
けれど、資料室の窓から差し込む夕日は、僕たちの影を一つの歪な形に繋ぎ止めていた。
「……美味しいわ。マドレーヌより、ずっと」
有栖は咀嚼しながら、僕の腕の中で小さく笑った。
その笑顔が、僕にはどんな聖女の微笑みよりも、残酷で、美しく見えた。
僕たちの「心中計画」は、まだ始まったばかりだ。
卒業式まで、あと二ヶ月半。
僕たちは、より深く、より醜く、お互いの人生を汚し合っていくことを誓った。




