第1話
青春というやつは、どうしてこうも騒がしく、そして無価値なのだろう。
卒業まで残り三ヶ月。校舎内は、名残惜しさを免罪符にした無意味な熱量で溢れていた。
進路が決まった安堵、あるいは離れ離れになる寂しさ。そんな手垢のついた感情が、冬の乾燥した空気の中で結露している。
僕、佐藤健人にとって、この学校はただの背景だった。
クラスの平均点、平均的な身長、誰の記憶にも残らない凡庸な顔。僕は「背景」として、この三年間をやり過ごしてきた。それでいいと思っていた。背景には、誰も期待しないし、誰も干渉してこないから。
だから、あの日。
昼休みの屋上。冷たいコンクリートの先、防護フェンスの「外側」に彼女が立っているのを見つけた時も、僕は叫んだり走り寄ったりしなかった。
「そこ、風強いですよ」
それが、僕が柊有栖にかけた最初の言葉だった。
学園の聖女。柊グループの令嬢。偏差値七十を超え、モデル顔負けの容姿を持ち、誰に対しても慈愛に満ちた微笑みを向ける。この学園という箱庭において、彼女はもっとも「高価な」存在だった。
そんな彼女が、地上二十メートルの縁で、冬の突風にスカートをなびかせている。
有栖はゆっくりと首を巡らせた。
そこには、いつも校内放送や集会で見せる完璧な微笑はなかった。氷のように冷たく、すべてを見透かすような瞳。
「……驚かないのね。普通は、泣きながら止めるか、スマホを向けるかのどちらかなのに」
「僕にそんなエネルギーはありませんよ。それに、君がそんな効率の悪い死に方を選ぶとは思えない」
僕はフェンスに背を預け、ポケットから安物のカイロを取り出した。
有栖はふっと口角を上げた。それは自嘲とも、あるいは僕への興味とも取れる歪な笑みだった。
「効率、ね。ええ、正解よ。私は死のうとしていたわけじゃない。ただ、測っていたの」
「何をです?」
「私の『市場価値』よ」
彼女は細い指先で、自分の頬をなぞった。
「このまま卒業して、親の決めた大学に行き、親の決めた相手と結婚して、柊というブランドを維持するための再生産を行う。それが私の人生の『最高値』。でも、ここから一歩踏み出せば、その価値は一瞬で暴落する。ゴミ屑同ぜんになる。その落差がどれくらいか、想像していただけ」
言葉の端々に、猛毒のような憎悪が混じっている。
彼女が背負わされているのは、期待という名の呪いだ。完璧であればあるほど、彼女自身の意志は磨り潰されていく。
「佐藤くん。あなた、私のことを『背景』みたいに見ていたわね」
「……気づいてましたか」
「わかるわよ。他の男たちは私を『獲物』か『神様』として見るけれど、あなただけは道端の石ころを見るような目で私を見ていた。だから、あなたを選んだの」
有栖は軽やかな身のこなしでフェンスを乗り越え、僕の目の前に着地した。
ふわりと、冬の寒さに混じって、高価なシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。
彼女は僕の胸ぐらを掴み、至近距離でその瞳を覗き込んできた。
「私を汚してくれない?」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
けれど、その言葉に性的なニュアンスは欠片もなかった。彼女の目は、獲物を狙う獣のそれだ。
「私が『柊家の令嬢』として使い物にならなくなるくらい、徹底的に。泥を塗って、傷をつけて、修復不可能なほどに台無しにしてほしいの。……卒業式の日、私の価値がゼロになるように」
僕は黙って彼女を見つめ返した。
彼女の提案は、自殺よりもずっと残酷で、ずっと難易度が高い。
「社会的抹殺、ですか」
「そう。心中と言い換えてもいいわね。あなたは私を汚した大罪人として、私は聖女から転落した汚れ物として。二人で一緒に、この息苦しい世界から追放されましょう?」
有栖は僕の手を掴み、自分の心臓の上に置いた。
厚いコート越しでもわかるほど、彼女の鼓動は速く、激しかった。
「どうして、僕なんです。もっと適役がいるでしょう。例えば、学校一の不良とか、スキャンダルを喜ぶような奴とか」
「ダメよ。それじゃ『想定内』のトラブルだわ。親は金と権力で揉み消すでしょうね。でも、あなたみたいな『何の色もついていない、無価値な背景』が相手なら話は別。もっとも価値のない男に、もっとも価値のある娘を奪われる。これ以上の屈辱は、あの人たちにはないわ」
徹底的な選別。
僕は、僕がもっとも「どうでもいい存在」だからこそ、彼女の復讐の道具として選ばれたわけだ。
普通なら怒るべきところだろう。けれど、僕は不思議と悪い気はしなかった。
背景には、背景なりの矜持がある。
「報酬は、僕の人生が台無しになるリスクに見合いますか?」
「私の個人口座に、親から自由にできないよう隠していた金があるわ。三千万。これを全部、あなたにあげる。卒業式の後、二人でこの街を捨てるための資金にしてもいいし、あなたが一人で消えるための手切れ金にしてもいい」
三千万。
高校生が手にするには、あまりに重く、毒々しい数字だ。
「……いいですよ。どうせ僕の人生、このままいけば薄味のまま終わる予定でしたから。最後に少し、刺激物を混ぜるのも悪くない」
僕が答えると、有栖は満足げに目を細めた。
「契約成立ね、佐藤くん」
彼女は僕の耳元に顔を寄せ、悪魔のような甘い声で囁いた。
「明日から、私たちは『愛し合う恋人同士』よ。世界中が私たちを呪うくらい、醜くて美しい嘘を積み上げましょう」
冬の風が、二人の間を吹き抜ける。
卒業まで、あと三ヶ月。
僕たちは、自分たちの人生を殺すための物語を書き始めた。
空はどこまでも鉛色で、けれど僕の視界だけは、かつてないほど鮮明に、彼女という「死神」を捉えていた。




