最愛の妻についた、たったひとつの嘘
前世は散々な死に方をした。
長年、初恋を拗らせていた幼馴染との帰り道。
今日こそ告白できたらいいな……と淡い期待を募らせながら信号を待つ。
しかし突然、どん、と彼女の身体が交差点に吹き飛ばされた。
慌てて自分も飛び出して彼女の身体を抱きしめ、地面に転がったはいいものの──
気がつけば魔王として自分が座っていた。
名を、オスカーといった。
人間であった時より感情が動かない。
これが魔族というものかと納得しつつ、あの瞬間を思い出しては確かに苦しくなる。
それからは生きる意味も理由もなく、ただ仕事をこなす日々。
そんな様子を部下に心配されて人間の世へ息抜きに行った時。
──幼馴染がいた。
いや、姿形は変わっている。
しかしその魂の形が恋した少女のものだった。
それから人の王と交渉をして、幼馴染──カトレアと婚約をした。
人の法の元で認められた正式な関係だ。
オスカーはカトレアと共に学園に入学した。
その中で、黒髪黒目の聖女と呼ばれる少女に恋を邪魔されることが続いた。
次第に傷つき、弱っていくカトレア。
オスカーは学園に入学するにあたって子爵家の令息として過ごしていた。
そのため一歩引いて物事にあたっていたが、流石にあの時は我慢ならなかった。
それからオスカーとカトレアは学園を卒業し、貴族籍を抜けて平民として生きる道を選んだ。
周囲からはとても心配された。
それでも、カトレアが「貴族として生きるのは疲れた」と言ったから。
オスカーは最愛の人と結婚し、幸せを掴んだ。
◆
森の中にある茶色の屋根の小さい家に、一組の夫婦とその子どもが暮らしていた。
妻であるカトレアは駆け落ち同然で自分との未来を選んでくれた、美しい人。
オスカーには、誰にも言えない秘密があった。
それは、カトレアの寝顔を見るたび胸奥に疼く、ひとつの恐怖だ。
――このまま時が流れれば、自分だけが変わらず、彼女だけが老いていく。
魔王であるオスカーの寿命は、ほぼ無限に等しい。
一方カトレアは、人間として生まれ、人間として歳をとり、やがて最期の時を迎える存在だった。
ラベンダー色の髪を柔らかく波打たせ、寝息を立てて眠る妻。
彼女の腕の中には、生まれて一年になったばかりの息子が、小動物のように丸まって眠っている。
娘は自室で眠っている。父似の黒髪に紫の眼を持ち、魔力に恵まれた活発な少女だ。
家は小さな農村にあったが、笑い声は絶えず、平穏と幸福が満ちていた。
オスカーは、そんな光景が愛おしくて、しかたがなかった。
――だからこそ、恐ろしかった。
やがてこの美しい世界から、自分だけ取り残されるのではないか、と。
◆
「……約束は、今日でしたか」
ん、と伸びをひとつ。
ある晩、オスカーは静かに妻子を寝かしつけると、そっと外へ出た。
昼間はあたたかい森も、夜になると顔を変えて冷たい印象を与える。
夜風が黒髪を揺らし、そのまま空へと舞い上がる。
目指すは王都。
そこには、人間の姿で暮らす二人の魔族が潜伏していた。
一人は、学園で女医として働くヴァンパイアの女性。
名を、イリスといった。
物腰柔らかな雰囲気からは想像できないほど彼女は本来“血”に敏感で、ひとたび本能が刺激されれば、魔族の中でも屈指の戦闘力を発揮する。
だが人間社会ではその爪を隠し、治癒魔法と医術を好んで身につけた変わり者だった。
もう一人は、神殿に勤める老人神父――その正体は悪魔の長老である。
名を、グルウェースといった。
「なぜ悪魔が神殿に?」と誰もが首をかしげるだろうが、当の本人いわく――
「聖なる場所に身を置くと、堕落しすぎた魂がよく見える。観察にはちょうど良いのですよ」
という、理解したくないような理由で長年神殿に居座っているのだ。
聖と邪の境界線を平然と跨ぎながら、人間たちの前では善良そのものの老神父を演じ、
本性は誰より冷徹で、魔族の中でも最古参のひとり。
それでも彼は、人の世に紛れ込むことを「気晴らしだ」と笑っていた。
二人とも部下の中でも古株であり、オスカーが信頼を置く人物だった。
夜の王都、鐘塔の最上階に降り立つと、白衣を纏、黒い蝙蝠の羽を背負ったイリスが月を背負って、煙管をふかしながら待っていた。
こつこつと靴を鳴らし、音と存在感で到着を告げる。
ちょうど鐘の裏についた時、彼女が現れた。
「魔王様、ご機嫌麗しゅう」
「相変わらずですね。学園では吸っていなかったでしょう?」
「……子どもの相手は、思ったよりストレスがかかるものでして」
癖のない真紅の髪が臣下の礼をとって揺れる。
陽に当たればあたたかく輝くそれも、今は凍えた血のように冷たい。
「あ、そうだ。……これを奥様に。ご懐妊祝いです」
「ありがとうございます」
人の世で過ごしているからか、こういう文化にも馴染んでいるらしい。
ちなみに、第二子である息子は約一年前に生まれたので、贈り物の時期としては遅いといえば遅い。
手触りが良さそうなタオルケットだ。
なにも言わず、オスカーは受け取っておいた。
「……その、本日はどういったご用でしょうか? まさか戻ってこいとかではないですよね?」
「流石に違いますよ……相談があります。
私も、妻と同じ時間を生きたいのです。
魔族の寿命を縮める方法はありませんか?」
女医の眉が優しく下がる。
「カトレア様を、とても愛されているのですね」
オスカーは苦笑した。
イリスには、自分が学園で身分を隠して過ごしていたことを知られている。
その頃の思いでが溢れて、懐かしさと感傷に浸る。
「現在の魔族の技術で、寿命を操作することは難しいとわかっています。
……でもどうしても、彼女と一緒に年をとって、死にたいのです」
「そうですね、わたしとしてもお二人のためにどうにかしたいのですが。
……申し訳ありません」
苦しそうに、もう一度イリスが頭を下げる。
「いえ、わかっていたことです。頭を上げてください」
やはり無理か。
オスカーの心に苦いものが溜まっていく。
カトレアを先に一人だ逝かせてしまう。
その事実を受け止めなければならないのに、重くて抱えきれない。
しかし、それが言葉にならない愛と言うなら。
オスカーは死ぬまでその想いを胸にしまって生きよう。
「最初からあなたにお伺いしても、解決できないことは頭では理解していましたから。
そのためにもう一人呼んだのです。……そこにいるのでしょう?」
バツが悪そうな顔で跪くイリスの隣に、ふっと闇から神父の格好をした老人が現れた。
恭しく帽子をとって、一礼。
その仕草はすべてを受け入れる神父そのもので、よくここまで化けられるものだとオスカーは感心した。
彼は温厚に見える笑みを浮かべて、オスカーに対して腰を折った。
「ご機嫌よう、魔王様。今宵は月が綺麗ですね」
「ははは。のうのうと遅刻ですか? 随分えらくなったものですね」
老神父は苦笑する。
軽口を叩けるくらいには彼はユーモアを持ち合わせていたので、会う時は楽しい会話をしている。
「しかし、共に死にたいですか。魔王様も案外乙女なのですね」
「いいものですよ? 夢中になれるものがあるということは」
表面上微笑み合う。
紫の瞳が月に向く。
その、夢中な人に、世界に取り残されるということはどういうことか。
想像するだけで胸が痛い。
「しかし、寿命を縮めるですか。確かにそんな魔法はありませんが……。
加齢していくように見せる魔法なら、ありますよ」
老紳士がぱちんと指を鳴らす。
一瞬で姿形が変わって現れたのは、白い神父の服を纏った青年。
「……そっちで活動したほうが、色々都合がいいのではないですか?」
「ははは、これでは威厳が足りないでしょう」
また老人の姿に戻り、ごほんと咳をひとつ。
「魔王様にはこの魔法をおかけします。
少なくともカトレア様には違和感を与えず、最期まで共に過ごせるでしょう」
「ええ、頼みます」
すぐぱちんと音が鳴る。
瞳を開けて、くるくると自分の体を確認する。
「……変わっていないように思いますが?」
「カトレア様と同じ齢になるように設定しています。
十年も経てば効果は出てきますよ」
まだ若いですね、とオスカーを笑う二人。
そんな光景があの時の学園にいた頃のように見えて、オスカーも少し笑った。
ひとしきり今の王国の現状について話し合って、情報を交換した。
この五年の間に、ラッフィーナが女王として戴冠したり、学園が建て変わったりと、世間は随分と変わったようだった。
「……そういえば」
そんな言葉で、会話の温度が下がる。
「あの後、聖女レインはどうした?」
腕を組み替える。
聖女レイン──カトレアに、心身の傷を負わせた痴女。
オスカーが好きと喚く割には、いつもオスカーの背後にあった「なにか」を見ていた女。
あの運命の舞踏会の日、オスカーは彼女の足を切断して耳を落とした。
後日、その場でできなかった続きをしようと王城の牢に足を運んだが、あの女はいなかった。
神殿に匿われているのかとも思ったが、そこには魔力の痕跡すらなかった。
「ああ、彼女ですか。もちろん適切な処理をして奴隷として送りましたよ。ねぇ?」
「えぇ。ご自慢の顔を焼いて、鉱山にね。
今も働いていると思います。ご覧になりますか?」
イリスが白衣のポケットから小ぶりな水晶を取り出し、こんこんと叩く。
──映ったのは地獄そのものだった。
かろうじて黒髪黒目であったため、映っているのがあの女というのはわかった。
しかし、顔はわからないほど焼け爛れ、足も耳も失っても、男たちに弄ばれている様子が一定時間で替わるアングルとともに映し出される。
鉱山ではこういったものしか娯楽がないのだろう。
穴があればいいのかもしれない。
……なるほど、働く、か。
王国の法は、奴隷であってもきちんと休息を取ることを義務付けられている。
しかし鉱山では掘ることが仕事だ。
おそらくあの女はそれすら満足にできなかったのだろう。
その結果、夜に身体を捧げる仕事を強制され、こうなったのではないかと思われた。
「大変なのですよ? 一ヶ月に一回、あっちに奴隷たちの定期検診に行くのですが、
その時の錯乱具合がもう酷くて……。「先生助けて」とか、「オスカー様に会わせて」とか。
なんで奴隷になったか理解していないようでした」
「しかし、その度に堕胎処置をしているのでしょう?
充分罰になっていると、私は思いますがねぇ……」
繰り返される強姦。
この世にある不幸が詰まったような光景。
「……もういいですよ、おかげで知りたいことは分かりました」
オスカーが視線をそらすと、老神父は優しく言った。
*
「さて、本題に戻りましょう。それは老いて見える幻影です。
定期的に……そうですね。五年に一度、王国建国記念の日にこの鐘塔まで来てください。
魔法がかかっているか、確認しましょう」
「ありがとう、助かります」
「よき人生を、魔王様」
そう送り出され、オスカーは夜明け前に家へ戻った。
◆
寝室を覗くと、カトレアと子どもたちは穏やかに眠っている。
「……ただいま」
小さな声で呟き、家族の隣にそっと横たわった。
こうして、たったひとつの嘘が始まった。
◆
それから六十年が流れた。
オスカーは外見上ゆっくりと老いていき、カトレアと並んだ時、不自然のない姿になっていた。
魔族の王であることは隠し通し、家族と過ごす日々をすべて、カトレアの速度に合わせた。
しかし最近、彼女の身体は急速に弱りはじめた。
そして今夜――オスカーは悟った。
今、カトレアの命の灯が消えようとしている。
ベッドを囲むように、子どもたちが泣きながら母の手を握っている。
娘――闇夜のような髪にアメジストの輝きの瞳を持つ少女は、すでに成人した。
そしてその成人のタイミングで、オスカーは自身が魔王であることを打ち明けた。
彼女は半魔でありながら才覚に優れ、それ故か人の世とはうまく馴染めずにいたようだったから。
真実を知った娘は、納得したように笑った。
それからはオスカーの王としての仕事を見学しながら、その王としての片鱗をメキメキと表していった。
「お父様。……魔王のお仕事、わたしでよければ継いであげてもいいわよ。
ただし! お母様には秘密ね? 心配かけちゃうもの」
そう言った娘に、オスカーは心から感謝した。
息子はカトレアに似て穏やかで、ラベンダー色の髪を持つ優しい青年に育った。
息子にも成人の際、オスカーが魔王であることは話した。
しかし彼は人間として生きていく決意を示し、オスカーもそれを尊重した。
そして――静かな呼吸の中、カトレアが目を開く。
「……ごめんなさい、オスカー。
あなたを置いていくことになるわ……寂しくは、ない……?」
今際の際だというのに、カトレアは誰よりも他人を気遣う。
その優しさが、オスカーは何より好きだった。
しわが増え、髪が白くなっても、彼女の微笑みは変わらなかった。
胸が張り裂けそうになった。
本当は叫びたかった。
寂しいに決まっている。
逝かないでくれ。
ずっと一緒にいたい。
しかし、そんな言葉を告げれば、彼女には心残りが増えるだけだろう。
だから、オスカーは――生涯でたった一度、嘘をついた。
「大丈夫だ、カトレア。
私にもすぐに迎えが来る。……すぐに、追いかけるよ」
その瞬間、カトレアはかすかに微笑んだ。
安堵の色を浮かべ、そっと目を閉じる。
子どもたちのすすり泣きが満ちる中で。
オスカーは、彼女の最期の息が止まる瞬間まで、手を離さなかった。
◆
葬儀は、小さく執り行われた。
オスカーと子どもたち、そしてイリスとグルウェースが集まり、
カトレアは静かに棺へと納められ、土に還った。
その後、グルウェースが囁く。
「魔王様。そろそろ魔法を解きましょうか」
「……そうですね」
魔法を解くと、オスカーの身体から老いの幻が消えていく。
黒髪は艶を取り戻し、瞳は輝きを宿し、若き日の魔王が顕現した。
息子が驚き、娘が苦しげに笑った。
「ふふ……なんだか、へんな感じね」
「父上、僕より若く見えますよ」
無理に笑おうとする子どもたちを見て、オスカーは胸が締め付けられた。
魔族は、基本的に嘘をつかない。
約束も契約も守る。
誠実であることが、魔族の誇りであり、王たるオスカーの矜持だった。
しかし――彼は破った。
この生で初めて、たった一度だけ。
そしてこれから先、二度とつかないと誓った。
最愛の妻を安心させるために。
彼女が穏やかな最期を迎えられるように。
耳には、婚約して初めて贈ったあの小ぶりな宝石がはめ込まれたピアスが輝いている。
失って、愛というのは言葉になるのかもしれない。
それを伝えたくても、あと何千年経っても伝えられない。
最初で最後の、
そして――最愛の妻についた、たったひとつの嘘だった。
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