第7話:紅の香炉と血染めの指先
ふいに、あたりが焦げたような匂いに包まれた。
それはわずかな異臭――香木が焦げすぎた時に似た、甘く鋭い匂いだった。
「……まただわ。昨日も、同じ香りがしたの」
玲玲が呟くと、側にいた寿雪が顔をしかめた。
「焼香房で誰かが火加減を間違えたのかと思ってましたが、連日続くとなると話は別です」
ふたりは御香司の私室を出て、内苑の香道の間へと歩いていた。
玲玲の手には、壊れた香炉の破片が入った小箱が握られている。あの夜、高貴妃の寝所で見つけた異形の香炉だ。香炉の内部には、黒く焦げた灰がこびりついていた。
「灰の粒子に、ごく微細な鉱物の混合がありました。普通の香木にはないものです」
「それって……燃やしてはいけない物?」
「恐らく、意図して混ぜられた『何か』です」
香木に鉱物を混ぜる技術は、古代の方術にも存在した。たとえば砒素や鉛華など、人体に悪影響を与えるものを煙にして吸わせることも可能なのだ。
玲玲が調べた香炉の残灰には、微量の朱砂――辰砂とも呼ばれる毒性のある鉱物が含まれていた。
これを香に仕込めば、長く吸い続けた者の体に不調をもたらすだろう。特に、内臓や神経に……。
「もしこの香が寝所で焚かれていたなら、あの吐血も、昏倒も説明がつくわ」
「でも、誰が……?」
寿雪が言葉を詰まらせた。玲玲の視線は、香道の間の入り口へと向けられていた。
その奥から、女官の一人が慌てた様子で走ってきた。
「玲玲様、たいへんです! 御香司の部屋が……」
「どうしたの?」
「部屋の香炉が燃え上がって……誰かが仕掛けたようで」
玲玲の背筋が凍った。
「案内して」
寿雪と共に駆けつけた部屋は、焦げた木の匂いと共にうっすらと煙が立ち込めていた。室内には誰もおらず、床の上に転がった香炉の中には、先ほどと同じ鉱物が混ぜられていた痕跡があった。
「これで確信したわ。……誰かが、意図的に香に毒を混ぜている」
「でもなぜ、御香司の部屋に?」
「証拠隠滅ね。高貴妃の寝所で焚かれていた香と、ここにあった香は、同じ種類だった可能性がある」
玲玲は小箱を開き、あの夜拾った香炉の破片を取り出す。
「模様が似てる……この文様、火焔と蓮……」
「それ、皇帝陛下が昔、妃への贈り物に好まれて使っていた意匠では?」
「そう。つまり――この香炉、もともとは皇帝の持ち物だった可能性がある」
玲玲の脳裏に浮かんだのは、あの夜、誰にも気づかれず部屋から立ち去った影。
そして、昨夜の雨音に紛れて聞いた、不審な物音と男の声。
「……あの夜、部屋にいたのは妃だけじゃなかった」
「まさか、陛下が?」
寿雪が声を潜める。
「わからない。でも、誰かが“皇帝の持ち物”を使い、妃を毒そうとした。その香炉が壊され、今度は御香司の部屋が襲われた……つまり、何かを消そうとしている者がいる」
「……それは、もはや事故ではありませんね」
「ええ。これは、事件よ」
玲玲の瞳に、紅い香炉の残骸が映る。
それは、過去の誰かの罪と、未来に続く陰謀の始まりだった。
この後宮の奥には、まだ知られていない“香”と“毒”の物語が潜んでいる。
玲玲は小さく息をつき、焦げた香の匂いの中で、次なる真実へと手を伸ばした。




