第13話:黄昏の閲覧室と、沈黙の本
図書館の中でも、最も西に位置する部屋──〈黄昏の閲覧室〉と呼ばれるその空間には、いつも薄暗い光が差し込んでいた。
壁一面に配された窓は、どれも分厚い硝子で覆われており、時の流れを封じ込めたような紫がかった光を透かしている。まるで過去の夕暮れが永遠に留まり続けているかのようだった。
「ここが……」
エルミナは足を踏み入れた。身を包む制服の裾が微かに揺れ、空気の重さに押されるように歩を進める。
この部屋にあるのは、図書館のどの書棚にも記されていない、“沈黙の本”──記憶から抹消されたはずの物語たちである。
「ここには、正式な貸出記録も閲覧履歴も存在しない本ばかりです」
案内してくれたのは、静かな瞳を持つ補佐官のナシュだった。無駄のない動きで扉を閉め、鍵をかける。その所作すら、儀式のように厳かだ。
「クラリスさんが言っていました。“毒の正体”を探るには、“削除されたもの”を追え、と。彼女が言っていた“ある成分が除去された痕跡”とは……?」
「その成分の名は、“沈香”です」
ナシュは低い声で告げた。
「古代の記録では、沈香は記憶を留めるために使われた香木だと記されています。特定の調香で人の感情を刺激し、あるいは封印する。……問題は、その“沈香”が“毒”として扱われたという記述が、一度この図書館から全て削除されていることです」
「削除、された?」
「“毒の知識”を封じることで、誰かを守ろうとしたのか──あるいは、記憶そのものを塗り替えようとしたのか。……我々は“失われた記憶”を追っているのです」
エルミナは、部屋の中央に据えられた机に目を向けた。そこには、封蝋で閉じられた一冊の古書が置かれていた。
黒革の表紙に、かろうじて浮かぶ銀の刻印。《Nocturnus Codex》。
かつて、失われた物語たちの中でも、読者の記憶ごと沈黙させる危険書として封印された本だ。
「これが……“沈黙の本”?」
「開けてはなりません」
ナシュの声がぴしゃりと響く。
「開けば、貴女の記憶の一部が、代償として失われる可能性があります」
「それでも……」
エルミナは静かに手を伸ばした。心の奥にある、少女の直感が告げていた。この本の中に、“あのときの図書館”──十三年前の“火災”の真実がある、と。
封蝋を指先でなぞる。その瞬間、微かな熱とともに、金属が融けるような香りが立ち上った。
ぱちん──という音とともに、封印が解かれる。
ページをめくったその刹那──
視界が、崩れ落ちた。
黄昏の光が一気に吸い込まれ、空間がゆがむ。文字が、図像が、音のように彼女の頭の中へと流れ込んでくる。
「……っ!」
エルミナは机に手を突いて耐えた。脳裏に焼きつくのは、十三年前の映像だった。
──あの夜、図書館を焼いた“火”は、事故などではなかった。
──誰かが、“沈香”を用いて記憶を封印し、事件そのものを葬ろうとしていた。
──その中心にいたのは、“館長代理”と名乗る女。
そして、その女の背後にいた、黒衣の騎士の姿。
(あの人は……私の、父……?)
映像が、ぷつりと切れる。
エルミナは荒く息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「ナシュ……これは、どういうこと?」
「貴女は、“記憶を編む者”です。記憶を失う危険を冒してなお、“失われた物語”を取り戻そうとした。……ならば、この先の道も、選ばねばなりません」
「……この図書館の真実を、最後まで見届けます」
その言葉を受け、ナシュは静かに頷いた。
「では、次に向かうべきは、“十三年前の扉”です」
黄昏の閲覧室の奥に、ひとつだけ色の異なる扉があった。銀に輝くその扉には、数字が刻まれていた。
──1312。
それは、エルミナが最後に見た父の背中と、燃え盛る図書館の記憶が交差する、“時の扉”だった。




