最終話:記録の終わりと、物語のはじまり
王宮の朝は、かつてないほど静かだった。
クラリスが侍女姿で書庫を歩く姿は、もう特別な注目を集めることもない。
だがその実、彼女の周囲では確実に、何かが動いていた。
王妃派の女官たちが少しずつ“供述”を始め、王宮内の監査部が非公式に動き出している。
クロエの持ち込んだ記録帳は、“ローゼル精の誤認”という仮説を大きく揺るがせた。
そして──
「……王妃陛下が、レオンハルト殿下に“静養のため退位”を申し出たとのことです」
ユリウスの報告に、クラリスは思わず肩を落とした。
「そう、ですか。つまり……記録には、残らない退場ね」
「その代わりに、“証拠書類はすべて破棄された”との通達も来た」
「やっぱり……記録は守られなかったのね」
皮肉だった。真実は明らかになりつつあるのに、それを示す“記録”はまた歴史の闇に消される。
「けれど」とユリウスが続ける。
「殿下は、君にこう伝えている。“記録が残らなくとも、記録する人がいれば、物語は死なない”と」
クラリスは、その言葉にしばし黙し、目を伏せた。
その夜、クラリスは書庫の片隅に座り、手帳を広げた。
──三年前の事件。ローゼル精、セリニア、女官の偽証、クロエの涙、そして王妃の沈黙。
書き留めていく。誰にも知られることのなかった「真実の履歴」を。
書くたびに、胸の奥に刺さっていた棘が少しずつ消えていく。
「ねえ、クラリス。もう“事件”じゃなくて、“物語”になったの?」
後ろから声をかけてきたのは、クロエだった。
「ええ。これからは、記録としてじゃなく……誰かに読まれる物語として綴るつもりよ」
「じゃあ、私は“悪役”として出てくるのかしら」
「もちろん。でも、途中で改心する。読者に人気のある役回りよ」
ふっと、ふたりで笑った。
その笑い声が、書庫の天井に静かに響く。
翌日、クラリスは王宮を去る許可を受けた。
名目は「留学」。だがそれは、再出発の意味を持っていた。
「ユリウスさん、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私はきっと……」
「礼には及ばない。私はただ、面白い記録を読ませてもらっただけだ」
彼はそう言って、金縁のメガネを少しだけ押し上げた。
「それに。君の“記録”は、まだ続くだろう?」
クラリスは頷いた。
「ええ。これから、誰かの記録を書き留める者になります」
「では、次の事件が起きたら──また会おう」
別れの言葉にしては、不穏すぎる。けれど、彼ららしいやり取りだった。
馬車の揺れに身を任せながら、クラリスはノートを開く。
最初のページに、こう書き添える。
『これは、かつて断罪された一人の“悪役令嬢”が、もう一度“運命の記録”を手に取った物語である』
そして──私はペンを走らせていた。




