第19話:クロエの涙、そして“もうひとつの毒”
静まり返った中庭に、夕陽が長く影を落とす。
聴聞会のあと、クラリスは人目を避け、書庫裏の庭園に身を寄せていた。
緊張がすべて抜けたのか、手足の感覚が少しずつ戻ってくる。
と──背後に、足音。
「……ここにいると思った」
現れたのは、クロエ・ファルノワだった。彼女の表情には、いつもの気位の高さがなかった。
「どうして、あんなに……冷静でいられたの?」
「冷静じゃなかったわ。ただ……三年前に、もう一度殺されたくはなかったの」
それは冗談でも皮肉でもない、静かな本音だった。
「──クロエ。あなた、まだ何か隠してるわね?」
クロエは、わずかに肩を揺らし、躊躇いながらも口を開いた。
「“もうひとつの毒”があるの。あの時、ローゼル精が使われたとされていたけど……実は、別の毒も混入していたわ」
クラリスは息を呑む。
「それは、“セリニア”。服用後、短時間だけ記憶を曖昧にし、感情の高ぶりを引き起こす薬……。私、偶然調合に関わってしまっていたの」
「関わっていた?」
クロエは、震える声で続けた。
「──王妃様に言われたの。“これを渡しておいて”って。私、成分なんて知らなかった。でも……あの夜、事件が起こって。あとからセリニアの成分記録を見つけて、震えた。私……知らないうちに、あなたを追い詰める手伝いをしていたのよ……!」
彼女の瞳に涙が溢れる。
「ごめんなさい、クラリス。私は……あなたに勝ちたかった。優等生で、誰からも信頼されてたあなたが憎かった。でも、それよりも自分の“役目”を果たすことばかり考えて……」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「クロエ。あの時、わたしは“勝っていた”わけじゃない。勝たされたの」
「……え?」
「王妃の目に留まったのは、あなただった。私が“断罪される役”に選ばれた時点で、勝ち負けなんてものはなかったのよ。だから、あなたが謝る必要なんてない。むしろ──今、話してくれてありがとう」
沈黙のあと、クロエはようやく涙を拭い、少しだけ笑った。
「あなたって、本当に……人を赦すのが、上手ね」
「いいえ。ただ、また記録が歪められるのが嫌なだけ」
そう言って、クラリスはクロエに向き直った。
「“セリニア”の存在。それを示す記録、あなたはまだ持っている?」
「……保管してあるわ。出すべきだと思って、ずっと隠してた。でも、ようやく出せる気がする」
「それで、ようやく“全ての毒”が揃う」
王妃が使った毒は、肉体を蝕む毒と、心を曇らせる毒──そして、沈黙という“社会的な毒”。
それらを並べることで初めて、三年前の事件は「全容を見せる」。
その夜、宦官頭ユリウスがクラリスのもとを訪れた。
「レオンハルト殿下からの通達だ。王妃陛下は“病のため面会謝絶”の状態が続いているが……王妃派の女官数名が、事情聴取に応じ始めた。君の発言が、静かに波紋を広げている」
「……ようやく、“記録”が動き出す」
クラリスは、心の底からそう呟いた。
「だが、気を緩めるな。王妃陛下は簡単には崩れぬ」
「分かってるわ。あの人は、“記録を隠す術”だけは、完璧に心得ているから」
その夜、クラリスの部屋にはクロエが持ってきた“セリニアの記録帳”が置かれた。
古びた薬品台帳の中、確かに記載された「王妃女官の使用依頼記録」。
もう、あの夜の“もうひとつの毒”は、忘れ去られない。




