第13話;灰の森の薬師
灰の森は、地図には“危険地帯”と赤字で記される地域だった。
毒性の強い菌糸類が自生し、瘴気の濃い空気が人を迷わせるという。だがそれ以上に、この森が“魔法災害の爪痕”として恐れられているのは──十数年前の暴走錬金術事件の舞台だったからだ。
「……ほんとうに、こんな場所に人が?」
馬車から降りたクラリスは、すでに薄く霞んだ空気に眉をひそめた。防瘴マスクをしていても、喉が焼けるように痛い。
「報告によれば、この南東の谷に診療所のような仮設小屋があるらしい」
ユリウスは、地図を頼りに深い林道を進む。足元の苔にさえ、毒素を感じる。
二人は錬金塔に“異議申立て”を行い、仮釈放の形で許可を得たばかりだった。期限は三日。その間に、証人を見つけなければならない。
やがて、倒木の向こうにかすかに人影が見えた。
──女がいた。
くすんだ白衣を羽織り、髪を無造作に結い上げた痩せた女性。
傷んだ手袋の上から試薬瓶を持ち、子どもの腕に包帯を巻いていた。
その顔は、ユリウスにとって、忘れようにも忘れられない顔だった。
「……アイリーン師匠」
クラリスが息をのむ。
「……師、って。あの“禁薬事件”で追放された……?」
アイリーンはわずかに顔を上げ、無感情な声で言った。
「来ると思った。王都からの匂いがしたもの。……それに、お前の気配はすぐわかるよ、ユリウス」
「……本当に、ここで……何をしてるんですか」
「何って、薬を作ってるだけよ。あのときから、ずっとね。毒にも薬にもなるものを、私は作るの。記録なんて関係ない、現実の“効き目”だけが証明なのよ」
クラリスが前に出る。
「お願いがあります。あなたが三年前、王妃から“毒の処方”を依頼されたと記録にありました。証人になっていただきたいのです」
アイリーンは、わずかに視線を逸らした。
「……あの記録は、まだ残っていたの?」
「残っていただけではなく、王妃によって封印されていました」
クラリスの声には力があった。
「毒を混入されたのは、私です。でも王妃はその罪を“でっちあげ”私に押しつけた。だから、記録を正しく再検証したいんです」
アイリーンはゆっくりと立ち上がると、森の奥の仮設小屋を指差した。
「来なさい。あなたたちに見せるものがある」
二人が案内されたのは、薬草棚と器具で埋め尽くされた小さな実験室だった。そこには、黒革の古いノートが一冊、丁寧に保管されていた。
「これは、あの“毒”の試薬記録。そして依頼内容が書かれた書簡の写し」
彼女はノートを差し出しながら言った。
「王妃は私に“発熱を伴う緩慢な毒”の開発を依頼した。理由は、“とある使用人の処分”だったと言っていたわ」
クラリスは驚愕した。
「使用人……?」
「そう。あの毒が“私に向けられたものではなかった”ということ?」
「ええ。もともとは、王妃付きの侍女……“リリス”という名の少女に使うはずだったの。でも彼女は突然、塔から姿を消した」
ユリウスが目を細めた。
「それで、王妃は……毒の使い道を“変更”した?」
「おそらくね。余った毒薬を、今度は“政敵の娘”に向けた……」
クラリスはノートを両手で握りしめた。そこには明確に──“処方目的:静かに体調を崩させ、病死と見せかけること”と書かれていた。
「……これが、私の無実を証明する鍵になる」
「いいわ、証言してあげる」
アイリーンは苦笑した。
「私もずっと……あの記録に縛られて生きてきた。今なら、やっと断ち切れる気がする」
空気が、ひととき澄んだような気がした。
そのとき、森の奥から奇妙な音が響いた。
「……馬? 何台も来てる?」
ユリウスが振り返ると、軍服をまとった兵が数十名、林の中を抜けて接近してくるのが見えた。
その先頭にいたのは、王妃直属の近衛隊長だった。
「──クラリス・ヴェルンシュタイン、公的拘留命令を再発行する! 即時、身柄を引き渡せ!」
クラリスが、ノートを強く握りしめる。
(……記録が語り出す真実を、絶対に渡すわけにはいかない!)




