第4話:“クロエ”が遺した花言葉
クロエ・ランベール——それが、クラリスが新たに読み返した事件記録の中にあった“被害者”の名前だった。
彼女の名は、過去の記録の中では小さく一度だけ、脇の証言者として登場していたにすぎない。
けれど。
「なぜ“クロエ”が遺したメモが、あの隠し扉に入っていたの……?」
クラリスは中庭の片隅、使用人たちの目が届かぬ古い温室の前で、小さな声でその疑問を口にした。手には、あの扉の奥に隠されていた一枚の紙片。
そこには、文字というより、押し花と、花言葉だけが記されていた。
《白いキキョウ:真実は沈黙のうちに——》
花言葉を通じた暗号。それは、王都上流階級の間で昔流行した“女学生の言葉遊び”だった。クロエが通っていたのも、王都で知られる寄宿学校《サン・ヴィオレ校》だ。
「……クロエ。あなたは、死の間際に真実を残そうとしたのね」
クラリスはメモを懐にしまい、誰もいない温室の扉を押した。軋む音とともに、半ば崩れた花棚の奥に、今は枯れてしまったキキョウの鉢植えが並んでいる。
「キキョウ……この場所が、記録にはなかった“もう一つの現場”だったのかもしれない」
彼女は足元に落ちていた、薄い金の髪の一房に気づいた。女性のものだ。束ねられて落ちていたそれは、おそらく「切られたもの」。
記録には「クロエは首を吊った」とだけある。しかし、死体の第一発見者である侍女の証言では「髪が乱れていた」との記述が曖昧だ。
あれは、乱れではない。“切られていた”のでは?
何者かが、自殺に見せかけて、彼女の死を偽装したのだとしたら——。
「……本当に自殺だったの? クロエ」
クラリスは、かつて事件の調書を作成した記録官の名を思い出した。
ユリウス・ミネルヴァ。
現王宮筆頭記録官。だが、当時の彼はまだ補佐で、調査の主導は別の者が行っていた。その名は——
「ルシアン・グレイ」
クラリスは目を細めた。ルシアンは、かつて自分を冤罪に追い込んだ筆頭記録官だった。冷徹で、歪んだ正義を振りかざすことで知られていた男。
クロエ事件を担当した彼が、記録の中で一切“動機”に触れていなかったのは、不自然だった。
ただ、「遺族の要望で記録は一部秘匿」とされていた。
(まるで、最初から“真相を隠すため”に作られたような事件記録……)
ぞくり、と背筋を冷たいものが走った。
そのとき。
「探していたよ、エルミナ」
声がした。背後から現れたのは、蒼銀の目を持つ青年——アルセインだった。
「……どうしてここに?」
「おまえが記録を持ち出したと知って、気になってな。クロエ・ランベールの事件、もう一度掘り返す気か?」
彼の声音には、怒りよりも、哀しみが滲んでいた。
それが妙だった。
「クロエを、知っていたの?」
「……ああ。彼女は、俺の——」
その続きを言いかけて、彼は唇を噛み締めた。
そして、ポケットから小さなペンダントを取り出す。
それは古びていたが、中央に《白いキキョウの花》が封じ込められていた。
「……忘れ形見だ」
沈黙が落ちた。
クラリスは問いかける。
「アルセイン。あなたは知っていたの? 本当は彼女が“殺された”可能性があるって」
「……確証はなかった。でも、ずっと引っかかっていた」
彼の言葉に、クラリスは息をのむ。
誰かが“真実を闇に葬った”。
そして今、その記録を開いた彼女に、また「沈黙」が迫ろうとしている。
(でも、わたしは繰り返さない。今度こそ、すべての記録を照らす)
彼女の中で、過去と現在が静かに重なっていった。
一度、ここで完結させて、明日連載を再開します。