第八十五話:狂信者の炎
五日目の夜。
帝国軍本陣、その中央に設えられた豪奢な天幕の中。
枢機卿ロデリクは、祭壇に飾られた教会の聖印を、その手で粉々に握り砕いていた。
「……面白い。面白いではないか、北条氏康」
彼の口元には、もはや聖職者の慈愛に満ちた笑みはない。ただ、神々しいほどに整ったその顔を、醜いまでの憎悪と屈辱が歪ませていた。
魔法も、竜も、騎士も、土竜も、そして大地の怒りさえも。彼が神の代理人として振るってきたその全ての力が、あの東の果ての異端の城の前には、児戯の如く打ち砕かれた。
「……そこまで、我らが神を愚弄するか」
彼の静かな呟きには、底知れぬ闇が宿っていた。
「ならば見せてやろう。人が神の御業を真に畏怖する、その瞬間を」
ロデリクは天幕の奥、厳重に封印されていた一つの黒い箱を、その手で開いた。
中に入っていたのは、人の皮と思しきもので装丁された、一冊の古い魔導書。中央正教会の千年の歴史の中で、禁忌中の禁忌として封印されてきた聖術が、そこには記されていた。
「閣下! それは……!」
護衛の騎士が悲鳴に近い声を上げる。
「聖アウトゥグスの『殉教の秘蹟』! それは人の魂を、神の御業のためのただの『器』へと変える、あまりにも非道な……!」
「黙れ」
ロデリクの絶対零度の声が、騎士の言葉を遮った。
「神は迷える子羊ではなく、従順なる『道具』を求めておられる。……栄光に浴するがよい」
ロデリクは天幕の外に出ると、聖堂騎士団の中から、先の戦いで最も狂信的な祈りを捧げていた者、家族を失い、もはや神への殉教以外に己の価値を見出せなくなっていた者、千名を自ら選び出した。
彼は選ばれた騎士たちを、陣営の片隅に設えられた巨大な野戦教会へと集めた。
「――神の子らよ」
ロデリクの声が、静かに、しかし有無を言わせぬ力で教会に響き渡る。
「汝らは選ばれた。数多の同胞の中から、神の御業をその身に宿すための、最も誉れ高き『器』として」
彼は禁忌の魔導書を開いた。ページから禍々しい、しかし、どこか神聖な光が溢れ出し、騎士たちの顔を照らし出す。
「これから汝らは、人としての生を終える。痛みも、恐怖も、そして死さえも、汝らから永遠に奪われるであろう。汝らは神の聖なる炎そのものとなり、異端の地をその身を以て焼き清めるのだ」
その言葉に、騎士たちの間に僅かな動揺が走る。
だが、ロデリクはそれを許さない。
彼は詠唱を始めた。それは癒しの祝詞ではない。人の理性を焼き切り、その魂を神への狂信という名の一つの色に染め上げる、呪詛の言霊。
騎士たちの瞳から個の色が消えていく。恐怖も疑念も全てが洗い流され、代わりにただ虚ろな、しかし絶対的な信仰の光だけが宿り始めた。
彼らの体からは聖なる光のオーラが立ち上り、その肉体はもはや痛みを感じぬ神の道具へと変貌していく。
「さあ、立て。我が愛しき『神罰の使徒』たちよ」
ロデリクは恍惚とした表情でその光景を見つめていた。
「汝らの信仰が、完成される時が来たのだ」
◇
六日目の早朝。
帝国軍の陣営から、進軍を告げる角笛が再びけたたましく鳴り響いた。
だが、小田原城の城壁の上でその様子を監視していた兵士たちは、首を傾げた。
進み出てきたのは、数万の軍勢ではない。僅か千にも満たぬ一団であったからだ。
彼らは聖堂騎士団のあの白銀の鎧を纏っていた。だが、その動きはあまりにも異様であった。
盾を持っていない。ただその両手に巨大な戦斧や両刃の剣を握りしめ、まるで夢遊病者のようにふらふらと、しかし一切の躊躇なく、城門へとまっすぐに歩いてくる。
「……様子がおかしい」
大手門の指揮を執る北条氏政が眉をひそめる。
「何かの罠か……? 鉄砲隊、構え! 射程に入り次第、撃て!」
だが、その命令は間に合わぬ運命にあった。
先頭の一団が射程圏内に入ったその瞬間、彼らは突如としてその歩みを狂ったような疾走へと変えたのだ。
「「「神に栄光を! 裁きの炎を!」」」
意味不明な言葉を絶叫しながら、彼らは城壁から放たれる矢の雨をその身に受けながらも、一切その速度を緩めない。
矢が胸を貫き、腹を抉る。だが、彼らは痛みを感じている様子すらない。その虚ろな瞳は、ただ城門の一点だけを見つめていた。
「な、なんだ、こいつらは!?」
城壁の兵士たちが恐怖に叫ぶ。
やがて、そのうちの一人がついに城門の前の最後の防柵にまでたどり着いた。
北条の足軽が、その心臓めがけて渾身の槍を突き立てる。
騎士はその槍が自らの体を貫くのにも何の頓着も見せず、ただその口元に、至上の喜びに満ちた穏やかな笑みを浮かべた。
「――神罰の、栄光あれ」
その最後の言葉と共に。
騎士の体が内側から凄まじい聖なる光を放ち、大爆発を起こした。
ドッゴオオオオオオオオオンッ!!!!
凄まじい爆音と衝撃。
聖なる炎が周囲の足軽たちをその鎧ごと一瞬で蒸発させる。
それは、彼らが自らの生命力と信仰心の全てを、禁忌の聖術によって純粋な破壊エネルギーへと変換した、捨て身の自爆攻撃。
ロデリクが生み出した、痛みを感じず、ただ死ぬ間際に聖なる炎となって爆発する狂信者の軍団。
『神罰の使徒』。
その最初の犠牲者であった。
「馬鹿な! 近づけるな! 遠距離から頭を狙え!」
氏政が絶叫する。
だが、もはや遅かった。
一人、また一人と「神罰の使徒」たちが防衛線を突破し、城門へとその身を叩きつけていく。
一人一人の爆発は、城門を震わせて焦がすだけ。
だが、それが十となり、百となった時。
量質転換が起こった。
ドッゴオオオオオオオオオンッ!!!!
ドッゴオオオオオオオオオンッ!!!!
連続する凄まじい爆発。
ブロック王がその全霊を込めて打ち立てた、小田原鋼で補強された巨大な大手門が、ついにその度重なる神罰の炎の前に悲鳴を上げた。
蝶番が吹き飛び、分厚い門扉が内側へと弾け飛ぶ。
ついに。
開戦から六日目にして初めて。
小田原城のその鉄壁であったはずの守りのその一角が、完全に破られたのだ。
静寂。
そのぽっかりと口を開けた黒い絶望の穴の向こう。
地平線の彼方から、進軍を告げる新たな角笛の音が響き渡った。
今度こそ、本隊。
残る二十数万の軍勢が、この僅かな突破口めがけて鬨の声を上げ、鉄の津波となって殺到してくるのが見えた。
「……父上……!」
氏政は、そのあまりにも絶望的な光景を前に、わななく唇で、ただ父の名を呼ぶことしかできなかった。
若き獅子のその瞳から、初めて覚悟ではない、純粋な恐怖の色が浮かび上がっていた。
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