第八十四話:神の鉄槌、民の祈り
四日目の朝。
帝国軍の陣営からは、これまでのような整然とした行軍の気配は消え失せていた。
代わりに、大地を覆い尽くしていたのは、混沌とした「熱」であった。
小田原城、本丸の櫓の上。
総大将・北条氏康は、遥か西の敵陣を見下ろし、眉をひそめた。
陣形などない。前衛も後衛もない。ただ、三十万の人間が、一つの巨大な肉の塊となって、じりじりと城へ圧力をかけている。
「……来るぞ」
その隣で、前線の指揮を執る氏政が、ゴクリと喉を鳴らした。
これまでの三日間とは、明らかに違う。戦術や駆け引きの匂いがしない。もっと原始的で、暴力的な何かが始まろうとしていた。
帝国軍本陣。
枢機卿ロデリクは、数百人の黒衣の司祭たちの中央に立ち、天に両腕を掲げていた。
彼らが詠唱しているのは、人の理性を焼き切り、闘争本能のみを極限まで高める、精神干渉の禁呪。
「――おお、我らが主よ! 小賢しい知恵も、臆病な理性も、もはや不要!」
「我らに必要なのは、ただ、異端を噛み砕く牙と、踏み潰す足のみ! 神の敵を、その数と肉を以て圧殺せよ!」
数百人の狂信が一つの巨大な波動となり、三十万の兵士たちの精神へと注ぎ込まれていく。兵士たちの瞳から、恐怖と理性の光が消え、代わりに血走った獣の光が宿る。
やがて、ロデリクは、その錫杖を、小田原城へ向けて振り下ろした。
「――行け。全てを蹂躙せよ!」
その瞬間。
地響きが鳴った。
太鼓の音も、法螺貝の音もない。ただ、「うおおおおおおおおおおッ!」という、三十万人の喉から絞り出される絶叫だけが、物理的な衝撃波となって空気を震わせた。
「な、なんだ、あれは!?」
城壁の上で、兵士たちが悲鳴を上げる。
攻城兵器の援護すらない。盾も持たず、ただ剣や斧を振り上げた兵士たちが、蟻の群れのように城壁へ殺到してくる。
前のめりに倒れた味方を踏み台にし、死体の山を築きながら、彼らは城壁をよじ登ろうとしていた。
「撃て! 撃てぇッ!」
鉄砲隊が一斉射撃を行う。最前列の兵士たちが薙ぎ倒される。だが、後続の兵士たちは、倒れた仲間の死体を「足場」にして、一切速度を緩めずに突っ込んでくる。
それは、もはや戦ではなかった。
人の命をただの「質量」としてぶつける、狂気の投石。
北条家が最も得意とする「理詰めの戦術」を、理屈の通じない暴力で押し潰す悪魔の所業であった。
◇
「申し上げます! 大手門、および西壁全域に敵兵が殺到! 城壁に取り付かれています!」
本丸に、次々と切迫した報せが舞い込んでくる。
「くっ……! 狂っている!」
氏政が呻く。
「死を恐れぬ兵など、もはや人間ではない! 獣だ!」
「氏政!」
氏康の鉄のような声が、狼狽する息子を打つ。
「敵は焦っておるのだ。策が尽き、力で押し潰すしか能がなくなったと見よ。……ここで引けば、我らが押し潰される。耐えよ。民を守る壁となれ」
氏康は、即座に次の命令を下した。
「――後備え、および『片葉の会』出動! 城壁への補給と、破損箇所の補修を最優先とせよ!」
「オークの者どもに伝えよ! あの獣たちを押し返せるのは、そなたらの怪力のみであると!」
「ドワーフの者どもには、傷ついた城壁の補強を頼め! 敵は死体を足場に登ってくるぞ、油を撒け!」
それは、総力戦の合図であった。
城壁の上では、凄惨な白兵戦が始まっていた。
よじ登ってきた帝国兵を、北条の足軽が槍で突く。だが、帝国兵は槍が刺さったまま、足軽の喉元に噛み付こうとする。
「うらあああああっ!」
その帝国兵を、横から巨大な戦斧が吹き飛ばした。
オーク族長グルマッシュであった。
「てめえら! 人間ごときに力負けしてんじゃねえ! 飯を食った分は働け!」
オークたちがその巨体を活かし、城壁にかけられた梯子を次々と押し倒していく。
彼らは人間では持ち上げられぬ大岩を投げ落とし、群がる「人の波」を物理的に粉砕していった。
城壁の裏側では、別の戦いがあった。
矢玉が尽きかけた前線へ、リレー形式で物資を運ぶ民衆の姿があった。
その指揮を執るのは、赤井久綱率いる片葉の会。
「急げ! 鉄砲隊の弾が切れるぞ!」
「ドワーフの旦那、こっちの壁が崩れそうだ!」
傷痍軍人たちが、義手や義足で踏ん張りながら、必死に兵站を支えている。彼らの背中を見て、城下の町人や職人たちも、恐怖を押し殺して瓦礫を運び、矢を束ねていた。
そして、城内の臨時医療院。
そこは、前線から運ばれてくる負傷兵で溢れかえっていた。
その中心に、一人の女神が立っていた。
黄梅院。
彼女は、昨夜、自らの命を狙われたにもかかわらず、また、血と泥にまみれることも厭わず、次々と運び込まれる兵士たちに手をかざしていた。
「……しっかりなさい! あなたはまだ、死ぬ時ではありません!」
彼女の【豊穣の女神】の力は、植物だけでなく、生命力そのものを活性化させる。
致命傷を負った兵士の傷が塞がり、青ざめた顔に赤みが戻る。
「奥方様……俺は……」
「すまぬ……まだ戦えますか」
「……はい! この命、殿のために!」
癒やされた兵士たちは、再び槍を手に取り、自らの足で戦場へと戻っていく。
帝国軍の計算では、この圧倒的な物量差で、半日もあれば小田原は圧殺されるはずであった。
だが、現実は違った。
人間が、オークが、ドワーフが、エルフが。戦う者も、運ぶ者も、癒やす者も。
全てが一つのかみ合った歯車となり、巨大な暴力の波を、ギリギリのところで食い止めていた。
恐怖も絶望も、そこにはない。
ただ、自分たちの国を、日常を、力ずくで奪おうとする理不尽への、燃えるような「怒り」と「結束」だけがあった。
◇
その夜。
帝国軍は、日没と共に潮が引くように後退した。
城壁の下には、信じがたい高さまで積み上がった死体の山が残されていた。
ロデリクの元に、前線部隊からの報告が届けられた。
「……味方の損害、数万。敵の城壁、未だ陥ちず……。敵もさることながら、あの城門をどうにかしない限り、この城は落ちませぬ」
報告する将軍の声が震えている。狂信の魔法をかけてなお、あの城は落ちない。
「……そうか」
ロデリクは静かに目を閉じた。
彼の神の鉄槌――圧倒的な暴力でさえ、あの異端の結束を断ち切ることはできなかった。
「……面白い」
彼の口元に、再びあの歪んだ笑みが浮かぶ。
単純な暴力で潰せぬなら、暴力の「質」を変えるまで。
「ならば、次の三日間で、本当の『神』の姿を見せてやろうではないか」
ロデリクは立ち上がり、天幕の奥に安置された「禁忌の箱」へと歩み寄った。
そこには、人の魂を燃料とし、爆発的な破壊力を生み出す、最悪の秘術が封印されていた。
「死を恐れぬ兵士たちよ。汝らの信仰を、形にする時が来たぞ」
彼の瞳の奥で、さらにおぞましい何かが、蠢いていた。
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