第八十三話:影対影、最後の舞
城下の廃屋。重く湿った闇の中に、二つの影が佇んでいた。
漆黒の騎士、夜告鳥。
そして、旅の吟遊詩人、ラメント。
夜告鳥は、冷ややかな視線で吟遊詩人を見下ろしていた。
「……手筈通りだな、ラメント。団長閣下より、最終命令が下った。『今宵、確実に北条の心臓を抉り出せ』とな」
ラメントは、愛用のリュートを弄びながら、困ったように肩をすくめた。
「やれやれ。人使いが荒いことだ。この美しい指は、殺しよりも歌を奏でるためにあるというのに」
「無駄口を叩くな。失敗は許されん。……貴様のような下賤な密偵が、黒薔薇の紋章を許されている意味を忘れるなよ」
夜告鳥は、威圧するように一歩踏み出した。
だが、ラメントは怯えるどころか、リュートの弦を指で弾き切り、不協和音を響かせた。
「ふふ……。クククッ」
ラメントの肩が揺れる。
その口から漏れたのは、卑屈な笑いではなく、腹の底から湧き上がる哄笑だった。
「何がおかしい」
夜告鳥が剣の柄に手をかける。
「いや、滑稽でな。……おい、夜告鳥。お前は、団長の本当の顔を見たことがあるか?」
「……何だと? 団長閣下は、我らの前でも素顔を晒すことはない。それが鉄の掟だろ」
「そうか。ならば教えてやろう」
ラメントが顔を上げた。
その瞳から、道化の色が消え失せていた。そこに宿っていたのは、夜告鳥の魂さえも凍らせる、底知れぬ支配者の眼光。
ドォッ、と。
ラメントの体から、どす黒いマナが噴き出した。それは夜告鳥の知るいかなる騎士よりも強大で、禍々しい。
「――私はな、こうして部下が『自分こそが操り手だ』と勘違いして踊る様を、一番の特等席で眺めるのが趣味なのだよ」
「な、まさか……貴さ、いや、あなたは……!?」
夜告鳥は後ずさり、膝が震えるのを止められなかった。
この威圧感。この絶対的な闇の気配。
間違いない。自分が命令を伝えていたこの男こそが、自分たちが絶対の忠誠を誓う、組織の頂点。
ラメントは――いや、黒薔薇騎士団団長は、懐から漆黒の短剣を取り出し、夜告鳥の喉元に切っ先を向けた。
「ご苦労だった、夜告鳥。私の正体を知らぬまま、よくもまあ、偉そうに吠えてくれたものだ。……退屈しのぎにはなったぞ」
「だ、団長閣下……! も、申し訳ございませ――」
「下がっていろ。これより先は、私の舞台だ」
ラメントの姿がふっと揺らぎ、影そのものへと変質していく。
「行くぞ。北条の心臓を抉り出し、聖戦の狼煙とする」
◇
丑三つ時。
本丸奥、黄梅院の居室。
障子越しに、一心に祈りを捧げる女性の影が揺れている。
ラメントは壁の染みとなり、床の影を伝い、音もなく障子の内側へと滑り込んだ。
(……愚かな。警備の目は、王である氏康と、次期当主の氏政に集中している)
闇の中で、ラメントは冷酷に笑った。
北条の守りは堅い。だが、その堅守は「家」を守るためのもの。当主とその跡継ぎさえ無事ならば、組織は揺るがないと信じている。
だからこそ、隙が生まれる。
この女こそが、民の心を繋ぎ止める「要」だとも知らずに。
護衛の気配はない。風魔の主戦力も、表の騒ぎと当主の警護に引きつけられている。
全ては計算通り。今が、好機。
帝国の禁呪『影渡り』。
実体を捨て、背後から心臓を一突きにする。それで終わる。
彼は影から実体へと戻り、黒い短剣を振り上げた。
「――幕引きだ」
刃が走る。
その切っ先が、黄梅院の細い首筋に触れる、寸前。
ガキィッ!!
硬質な音が闇を裂いた。
何もないはずの空間から伸びた黒い刃が、ラメントの短剣を完璧に受け止めていた。
ラメントが舌打ちをして飛び退く。
黄梅院の前の闇が揺らぎ、鬼の面をつけた影が実体化する。
「……無粋な音だ。歌はどうした」
風魔小太郎。
主君の大切な人を守るため、彼もまた、最初から闇の一部となっていたのだ。
「風魔……。私の正体に、気づいていたか」
ラメントの顔から、詩人の仮面が剥がれ落ちる。
小太郎は、愛刀『無明』をだらりと下げたまま、静かに答えた。
「ただの密偵にしては、気配が大きすぎる。それに、お前たちの組織の動き……統率が取れているようで、どこか歪だ。頭が、常に現場で遊んでいるからだろう」
小太郎の眼光が、仮面の奥で鋭く光る。
「……誰も顔を知らぬ『団長』。我らにも気取らせぬ存在。それが貴様だな」
「……ククッ、ハハハ!」
ラメントが哄笑する。
「面白い。実に面白いぞ、東の影よ! 味方も欺き、敵の懐で踊る。これぞ暗躍の極致ではないか!」
ドォッ、とラメントの体から殺気が膨れ上がる。
「その通り、私が黒薔薇騎士団団長、ラメント!影の王は二人もいらぬ。神の御名において、その魂ごと喰らってやる!」
戦闘は、瞬きする間に沸点へ達した。
ラメントが踏み込む。その速度は音を置き去りにする。
短剣が蛇のように伸び、分裂し、全方位から小太郎と黄梅院を襲う。帝国の暗殺剣と闇魔法の融合。
対する小太郎は、最小限の動きで『無明』を閃かせる。
キン、キン、キィン……!
火花だけが闇に散る。
だが、ラメントの猛攻は止まらない。
彼は左手をかざし、どす黒い影のマナを放出する。
「《影蝕》!」
部屋の影そのものが牙を剥き、無数の黒い棘となって小太郎を襲った。
小太郎は身を捻り、紙一重で回避するが、避けきれなかった一撃が彼の忍び装束を切り裂き、腕から鮮血が飛ぶ。
「ぐっ……!」
小太郎の体勢が崩れる。
その隙を見逃すラメントではない。帝国の暗殺剣が、蛇のようにしなり、小太郎の喉元へと迫る。
ガギィンッ!
小太郎は『無明』の柄で辛うじて受け止めるが、凄まじい膂力に押され、じりじりと後退を余儀なくされる。
「どうした、風魔! 噂ほどではないな!」
ラメントが嘲笑いながら、さらに圧力を強める。
小太郎の仮面の一部が砕け、血が滴り落ちる。呼吸が荒くなる。
速さ、技、そして魔法による搦め手。
そのすべてにおいて、ラメントはこれまで戦ったどの敵よりも「格」が違った。
「……さすがは、黒薔薇の団長か。大陸最強を誇る帝国の闇の頂点……伊達ではないな」
小太郎は、血を吐き捨てながら、敵の強さを認めた。純粋な戦闘能力では、あるいは相手の方が上かもしれない。
「光栄に思え。この私の本気を見る者は、貴様が初めてだ!」
ラメントの瞳が狂気に輝く。彼は勝利を確信していた。
小太郎を壁際まで追い詰め、とどめの一撃を放つべく、黒い短剣に膨大なマナを収束させる。
「なぜだ! なぜ守る!」
ラメントは叫びながら、必殺の間合いへ踏み込んだ。
「貴様ほどの腕があれば、闇の頂点に立てる! なぜ、か弱き女一人のために命を張る!」
その切っ先が、小太郎の心臓を捉える寸前。
小太郎の瞳から、焦りが消えた。
そこにあったのは、深い静寂と、哀れみ。
「……哀れな男よ」
「何だと!?」
「主を持たぬ影は、ただの闇だ。貴様は、誰をも信じず、誰からも信じられず、ただ孤独に闇を彷徨う亡霊に過ぎん」
小太郎の気配が変わった。
追い詰められた獲物のそれから、罠にかかった獲物を見下ろす狩人のそれへ。
「――ここだ」
小太郎が、印を結んでいた左手を、床に叩きつけた。
「見せてやる。これが、風魔の『影』だ」
ズズズッ……!
ラメントが踏み込んでいた床の影が、生き物のように蠢き、一斉に彼の足元に牙を剥いた。
風魔忍法・影縫い。
小太郎は、防戦一方になりながらも、ラメントをこの「影の濃い場所」へと誘導していたのだ。
「しまっ――!?」
足を取られ、ラメントの動きが止まる。その顔に、初めて驚愕の色が浮かぶ。
その一瞬の隙。
銀色の閃光が、彼の視界を白く染めた。
『無明』の一撃。
ミスリルを鍛え上げた黒い刀身が、防御の上から団長の心臓を正確に貫いていた。
「が、は……」
ラメントが崩れ落ちる。
手から滑り落ちた短剣が、カラン、と乾いた音を立てた。
彼は薄れゆく意識の中で、頭上の満月を見上げた。
かつて、自分が愛し、歌に詠んだ月。
「……見事、だ……。孤独な亡霊、か……言い得て妙だ……」
血の泡と共に、最期の言葉が漏れる。
「……枢機卿閣下は……必ず……神の……裁きを……」
呪詛を残し、黒薔薇騎士団団長は絶命した。
部屋に静寂が戻る。
小太郎は、傷ついた体を引きずり、黄梅院の前に膝をついた。
「……お怪我は」
「ありません……。小太郎、ありがとう」
気丈に振る舞っていた黄梅院の膝が、安堵で崩れ落ちる。
その時、部屋の襖が勢いよく開かれた。
「お梅! 無事か!」
血相を変えて飛び込んできたのは、夫である北条氏政。
そして、その後ろから、総大将・北条氏康も静かに姿を現す。
「あなた……」
氏政は妻を抱きしめ、その温もりに震えた。
氏康は、庭に転がるラメントの骸を一瞥し、小太郎に視線を移した。
「ご苦労であった、小太郎。まさか、敵の団長自らが乗り込んでくるとはな」
「は。……手強い相手でした。奴が慢心していなければ、危なかったかもしれません」
「頭を失った黒薔薇は、もはや枯れるのみ。残る鼠どもも、夜明けまでに始末いたします」
「うむ」
氏康は窓際へと歩み寄り、東の空を見据えた。
白み始めた空が、決戦の朝を告げている。
「影の戦いは終わった。……次は、光の下での決着だ」
氏康の声に、小太郎も深く頷く。
物理攻撃、地下工作、毒、兵糧攻め、そして暗殺。あらゆる手を封じられた帝国軍。残された道は、狂信と暴力による正面突破のみ。
「行くぞ、小太郎。最後の仕上げだ」
「御意」
影は主君の影へと戻り、光は新たな朝を迎える。
戦いの行方は、ここから決まる。
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