第八十二話:生命線の防衛
戦場において、最も多くの血を吸うのは剣や槍ではない。飢えと渇きだ。
三十万の帝国軍と、二万の北条連合軍。その巨大な暴力の衝突を裏で支えていたのは、膨大な物資の消費という、音のない、しかし悲鳴のような数字の羅列であった。
小田原城、兵糧奉行所。
北条氏政は、天井まで積み上げられた帳簿の山に埋もれながら、血走った目で筆を走らせていた。
「弾薬が足りぬ! 鉄砲隊の消費量が想定の倍だ! 工業区へ急使! 鉄鍋を溶かしてでも鉛玉を作らせろ!」
「西の郭、矢の補給が遅れています! エルフ部隊から『魔法の矢』の触媒となる魔石の粉末が尽きたとの要請!」
「食料だ! 前線のドワーフたちの腹は底なし沼か! 追加の握り飯を、あと三千個! 今すぐにだ!」
怒号が飛び交う室内は、前線に劣らぬ戦場であった。
氏政の横で、大道寺政繁が冷ややかな汗を拭いながら算盤を弾く。
「……若殿。このままのペースで推移すれば、備蓄米はそう長くは持ちませんぞ。味噌と塩もです。長期戦になれば、先に倒れるのは我々になるやもしれません」
その冷徹な予測に、氏政は筆を止めた。指先が微かに震える。
「わかっている。だが、兵の腹を減らせば士気に関わる。……切り詰める場所がない」
その時であった。
窓の外が、不自然に赤く染まった。
夕焼けではない。真夜中だ。
直後、半鐘の音が乱打された。敵襲を告げる音ではない。火急を知らせる、悲痛な響き。
「火事だ! 三の丸、兵糧庫が燃えているぞ!」
氏政と政繁は、弾かれたように立ち上がり、窓へ駆け寄った。
眼下に広がる城下の一角、北条軍の胃袋である巨大な兵糧庫から、紅蓮の炎が夜空を舐めるように立ち上っていた。ただの失火ではない。黒い煙と共に、毒々しい紫色の炎が混じっている。魔法による放火だ。
「……黒薔薇かッ!」
氏政が呻く。
水と地下を塞がれた帝国が、次に狙ったのは「食」であった。兵糧を焼けば、城は戦わずして落ちる。最も卑劣で、最も効果的な手だ。
◇
現場は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
黒薔薇騎士団の工作員が放った『消えぬ魔火』は、水をかけても衰えるどころか、油を注いだように燃え広がる。米俵が爆ぜる音、焦げた穀物の匂いが立ち込め、消火にあたる足軽たちが逃げ惑う。
「だめだ! 火の勢いが強すぎる! 近づけん!」
「延焼するぞ! 風下の民家を壊せ!」
混乱の極みにある現場に、馬を駆って氏政が現れた。
彼は燃え盛る兵糧庫を見て、一瞬、絶望に膝が折れそうになった。あれが燃え尽きれば終わりだ。
だが、その視界の端に、恐怖に震えながらも手桶で消化しようとする町人たちの姿が映った。
(……守らねばならぬ。米をではない。この者たちの、心を)
氏政は馬上で叫んだ。
「うろたえるな! 蔵の一つや二つ、くれてやれ!」
その意外な言葉に、兵も民も動きを止めて彼を見上げた。
「火を消すことより、延焼を防ぐことを優先せよ! そして――」
氏は政は、隣に控える政繁に、断固たる口調で命じた。
「政繁! 本丸の地下蔵を開けろ! 虎の子の『陽光米』を、すべて運び出せ!」
「なっ……!?」
政繁が目を見開く。
「あれは最後の砦、籠城戦のための切り札ですぞ! 今ここで放出すれば、後がありません!」
「今がその時だ! 民を不安にさせるな! 『北条にはまだ売るほど米がある』と見せつけるのだ! 腹が満ちれば、心も落ち着く! 蔵が焼けても、民の心が離れなければ、国は滅びぬ!」
その、父・氏康譲りの胆力。政繁は一瞬呆気にとられ、次いでニヤリと笑った。
「……承知。やけくそですな。ですが、嫌いではありません」
北条家の家紋が入った備蓄米が、次々と運び出された。
それを見た民衆の目に、光が戻る。
「見ろ! お殿様が、奥の米を出してくれたぞ!」
「飯は食えるんだ! 北条様は俺たちを見捨ててねえ!」
その安堵は、即座に力へと変わった。
「おい、ボサッとするな! 俺たちも手伝うぞ!」
「ドワーフの旦那! その怪力で、燃えてる梁をどかしてくれ!」
「おうよ! 任せとけ! 水のエルフたち! 雨を降らせられんか!」
「やってみます! 森の精霊よ、我らに力を!」
奇跡のような光景が広がった。
人間が水桶の列を作り、ドワーフが斧を振るって防火帯を作り、エルフが詠唱して風の向きを変え、オークが焼け落ちた柱を素手で受け止める。
種族も身分も関係ない。ただ、自分たちの街を、自分たちの「食」を守るために、全員が一つになって炎に立ち向かっていた。
◇
夜明け頃、火は鎮火した。
兵糧庫の半分は焼失したが、残りの半分と、城下の民家は守り抜かれた。
煤だらけになった氏政の元に、ドワーフの職人と人間の町人が、お互いの肩を叩き合いながら握り飯を頬張る姿があった。その握り飯は、氏政が放出した陽光米で炊かれたものだ。
「……勝ったな、氏政様」
同じく煤まみれの政繁が、焼けた蔵の前で呟いた。
「物理的には大損害です。ですが、見なされ。民の結束は、火事の前より強固になった。黒薔薇の狙いは、完全に外れましたな」
氏政は、安堵のため息と共に、へたり込んだ。
「……ああ。だが、高くついた勝利だ。父上に叱られるな」
「なに、請求は帝国に回しましょう」
二人は顔を見合わせ、力なく、しかし晴れやかに笑った。
兵站という名の生命線は、米の量ではなく、それを守ろうとする人々の意志によって繋がれたのだ。
だが、その光景を遠くの闇から見つめる影があった。
黒薔薇騎士団の団長。
彼は、破壊工作の失敗を認めながらも、その仮面の下で冷酷に目を細めていた。
「……兵糧攻めも通じぬか。よかろう。ならば次だ」
炎の夜が明け、次なる影の戦いが始まろうとしていた。
◇
小太郎の元に、城内を巡回していた配下の忍びたちが、次々と不穏な報告を持ち込んでいた。
「報告! 二の丸御殿の屋根裏にて、微かながらも不自然なマナの痕跡を発見。何者かが侵入し、内部を窺っていた形跡がございます」
「報告! 本丸の警護にあたっていた足軽一名が、持ち場を離れたまま行方不明に。周囲には争った跡はありませんでしたが、微量の睡眠毒の痕跡あり」
「報告! 氏政様の居室近くを警備していた忍びが不審な者を発見!追跡するも逃げられてしまいました」
矢継ぎ早にもたらされる情報は、一つの明確な意図を指し示していた。
敵の狙いは、城の中枢。
総大将・北条氏康と、次期当主・氏政の首である。
「……ただ、露骨すぎるな」
小太郎は、地図の上に置かれた駒を見つめながら、独りごちた。
黒薔薇騎士団の手口にしては、痕跡が多すぎる。まるで、「ここにいるぞ」と誇示するかのように。
傍に控えていた霞が、不安げに問う。
「頭領。これは、敵の陽動でしょうか?」
「陽動だとしても、無視はできぬ。万が一、本命であれば取り返しがつかん」
小太郎は、瞬時に決断を下した。
「城内の風魔衆を総動員し、本丸および二の丸の警備を最高水準に引き上げよ。氏康様と氏政様の周囲を、蟻一匹通さぬ鉄壁の守りで固めろ」
「……手薄になる場所が出ますが」
「構わん。敵の狙いが当主の暗殺である以上、ここを抜かれるわけにはいかぬ」
北条の城内深くに潜む、最強の忍びと、最強の暗殺者。
二つの影が交錯する刻が、迫っていた。
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