第八十一話:土竜と黒薔薇
三日目の朝。
小田原の空は高く晴れ渡っていたが、地上に漂う空気は澱んでいた。
血と鉄、そして硝煙の臭いが染み付いた平原で、帝国軍は沈黙を守っている。巨大な攻城塔や破城槌が再配置されているが、前進してくる気配はない。
傷ついた巨獣が、次の一撃のために息を潜めているような、不気味な静寂。
本丸、軍議の間。
「敵の動き、依然としてありません。攻めあぐねていると見て間違いないでしょう」
若き武将の一人が、安堵と慢心の混じった声で報告した。
氏政もまた、連勝の熱に浮かされていた。
「正面からの力押しは通用せぬと悟ったか。愚かな。このまま睨み合えば、兵糧の差で自滅するのは奴らの方だ」
その言葉を、上座の氏康が冷ややかに遮った。
「……氏政。兜の緒が緩んでおるぞ」
父の低い声に、氏政はハッとして背筋を伸ばす。
「相手は三十万の大軍を擁する帝国だ。二度の敗北で諦めるような柔な相手ではない。静かな時ほど、耳を澄ませ。見えぬ場所で、何かが動いている」
その時、広間の隅で地図を睨んでいたドワーフの副官グレンが、床に耳を押し付けたまま、鋭く言った。
「……音がする」
誰もが耳を澄ますが、何も聞こえない。
「いや、空耳ではない。……ズズ、ズズズ……。岩を削る音だ。それも、一つや二つではない」
グレンは顔を上げ、戦慄の表情で断言した。
「地下だ! 何者かが、大手門の真下へ向かって、坑道を掘り進めている!」
◇
その頃、地下二十間(約36メートル)。
光の届かぬ闇の中で、帝国軍の特殊部隊「黒薔薇騎士団」の工兵隊長ペトロスは、歪んだ笑みを浮かべていた。
「ヒヒ……。地上の馬鹿どもが騒いでいる間に、我らは王手だ」
彼の指揮下、魔法で強化されたつるはしを持つ工兵たちが、驚異的な速度で岩盤を掘り進めている。
狙いは小田原城の石垣の基礎。そこに高純度の火炎魔石を大量に埋め込み、一斉起爆させる。
「難攻不落の城壁も、足元から崩れれば砂上の楼閣よ。異端どもが空を飛んで逃げる様が目に浮かぶわ」
ペトロスは懐中時計を確認した。
「あと一刻(2時間)。それでチェックメイトだ」
だが、彼は知らなかった。
土と石の世界において、ドワーフという種族以上の「捕食者」は存在しないことを。
「――見つけたぞ、ドブネズミども」
不意に、頭上から声が降ってきた。
ペトロスが見上げる間もなく、坑道の天井が、正確に計算された一点から爆発的に崩落した。
ドゴォォォン!!
土煙と共に降ってきたのは、岩塊だけではない。
全身を鋼の鎧で固めた、髭面の戦士たち。
ドワーフ鉄壁兵団の別動隊、「坑道ラット」部隊であった。
「なっ、どこから!?」
「上からだ、間抜け! 貴様らが掘る音など、我らには祭太鼓より騒々しいわ!」
グレンが戦斧を一閃させる。
狭い坑道での戦いを知り尽くしたドワーフの一撃は、帝国の工兵を鎧ごと粉砕した。
「ひいぃッ! 迎撃せよ! 魔法を使え!」
ペトロスが叫ぶが、狭い空間での魔法は自爆を意味する。躊躇した隙に、ドワーフたちが雪崩れ込む。
「ここは我らの庭じゃ! 土に還れ!」
閉鎖空間での一方的な蹂躙。
帝国の「土竜」作戦は、真の地の主によって、文字通り土に埋もれて消滅した。
◇
地下での勝利の報せが届くのと同時に、新たな凶報が本丸を襲った。
「報告! 城北の水源地にて、不審な影を確認! 警備兵が殺害されました!」
氏康の顔色が変わる。
「水か。……腐った手を使いおる」
小田原城の生命線、上水。そこに毒を撒かれれば、兵糧攻め以上の速さで城は死ぬ。
「氏政、行け!」
氏康の檄が飛ぶ。
「民の命の水だ! 一滴たりとも汚させるな!」
「はッ!!」
氏政は手勢を率い、水源地へと疾走した。
到着した彼が目にしたのは、水源の池に黒い液体を注ぎ込もうとする、漆黒の装束を纏った男たちの姿だった。
黒薔薇騎士団、暗殺部隊。
「貴様らァッ!!」
氏政が叫び、斬り込む。
だが、敵の隊長アウグストゥスは、冷ややかな目で氏政を見据え、手にした毒瓶を掲げた。
「遅いな、若造。この『腐敗の雫』は、一滴で千人を殺す」
彼が瓶を傾ける。
その瞬間、横合いから飛来した鉄の礫が、アウグストゥスの手首を打ち砕いた。
「ガッ!?」
毒瓶が宙を舞い、地面に落ちて砕ける。毒液が草を枯らすが、水には届かない。
「誰だ!」
アウグストゥスが痛みに顔を歪めて睨んだ先には、片腕に鋼鉄の義手を装着した初老の武士が立っていた。
元侍大将、赤井久綱。
そして彼に続く、義足や義手の兵士たち。傷痍軍人部隊「片葉の会」であった。
「殿から預かったこの城、ネズミの遊び場にはさせんぞ」
赤井が義手に仕込んだ投石器を構え直す。
「片輪者だと? 舐めるな!」
暗殺者たちが襲いかかる。
だが、「片葉の会」の動きは、常人のそれとは違っていた。
失った手足の代わりに装着したドワーフ製の義肢は、時として武器となり、盾となる。何より彼らは、一度死線を越え、絶望から這い上がった者たちだ。その胆力は、暗殺者の殺気を凌駕していた。
「かかれぇ! 若殿をお守りしろ!」
赤井の号令で、傷だらけの狼たちが敵に食らいつく。
その隙を突き、氏政がアウグストゥスへ肉薄した。
「民の明日を、貴様ごときに奪わせてたまるか!」
氏政の一閃が、アウグストゥスの仮面を割り、その胸を切り裂いた。
◇
水源地には、再び清らかな水の音が戻っていた。
毒は未然に防がれた。
氏政は、血を拭うことも忘れ、赤井の手を――冷たい鋼鉄の義手を、両手で握りしめていた。
「赤井……。礼を言う。そなたらが居なければ、取り返しのつかぬことになっていた」
「もったいないお言葉。……我らはただ、自分たちの『戦場』を守ったまでにございます」
赤井は誇らしげに笑った。
地下と、水際。
二つの陰湿な毒牙は、北条の「地の利」と「人の和」によって砕かれた。
だが、本丸で報告を聞く氏康の表情は晴れなかった。
「地下も、毒も、所詮は小手調べか」
彼は西の空、帝国の本陣を見据える。そこには、今の失敗など意に介さぬような、より巨大で、より狂気じみた黒い気配が渦巻いていた。
「ロデリクめ。次はいかなる禁じ手を使ってくるつもりだ」
次なる攻撃は、小細工ではない。人の心と信仰を蹂躙する、真の「悪夢」が訪れようとしていた。
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