第八十話:鉄壁と地黄八幡
二日目の朝。
戦場を覆っていた朝霧が晴れると同時に、帝国軍の陣営から、腹の底に響くような重低音が鳴り始めた。
ズシン、ズシン、ズシン。
それは太鼓の音ではない。五万の重装歩兵が、一糸乱れぬ歩調で大地を踏みしめる、死の行進曲であった。
彼らは魔法を使わない。空も飛ばない。
ただ、全身を分厚いプレートメイルで固め、長大な長槍と大盾を構え、ひたすらに前進してくる。
その背後には、城壁よりも高い巨大な攻城櫓と、太い丸太に鉄の頭をつけた破城槌が、巨獣のように付き従っていた。
単純にして、絶対的な「質量」の暴力。小細工が通じぬなら、数ですり潰す。帝国の底力が、そこにあった。
「……来たか」
大手門の櫓。前線指揮を執る北条氏政は、双眼鏡を持つ手が汗ばむのを感じた。昨日の魔法戦とは違う、肌を刺すような物理的な圧迫感が迫ってくる。
その隣で、ドワーフ王ブロックが、髭を編み込んだ指で愛用の戦槌を撫でた。
「ふん。ようやく殴り合いか。花火大会より、よほど性に合うわい」
ブロックはニヤリと笑い、眼下の城門を見下ろした。
「氏政殿。門を開けられよ」
「なっ……正気ですか!? この大軍を前に!」
「城壁に張り付かれては手遅れじゃ。我らが外で食い止める。ドワーフの戦とは、敵を懐に入れぬことよ」
ブロックは兜の緒を締め、氏政の肩を叩いた。
「合図を待て。我らが支えきれなくなった時こそ、あやつの出番じゃ」
ギィィィィィン……。
重苦しい金属音と共に、小田原城の大手門が内側から開かれた。
攻め寄せる帝国兵たちが、どよめく。降伏か? 罠か?
その暗闇の奥から現れたのは、五千の鋼鉄の塊であった。
ドワーフの鉄壁兵団。
彼らは人間より背は低いが、その横幅と筋肉の密度は倍以上ある。ミスリルと鋼の合金で鍛えられた大盾を隙間なく連結させ、まるで動く要塞のように展開した。
城門の前に、もう一つの鋼鉄の壁が出現したのだ。
「怯むな! 異端の小人どもだ! 踏み潰せ!」
聖堂騎士団長の号令一下、五万の重装歩兵が加速する。
ドワーフたちは、大地に根を張るように腰を落とし、一斉に呼気を吐いた。
「「「ヌゥゥゥゥゥゥンッッ!!!」」」
ドッゴオオオオオオオオオンッ!!!!
鋼鉄の津波が、鋼鉄の岩礁に激突した。
鼓膜が破れそうな衝撃音。火花が散り、肉と骨が軋む音が戦場を支配する。
だが、ドワーフの壁は揺るがなかった。
最前列の帝国兵は、自らの突進の勢いを殺しきれず、ドワーフの盾に弾き返され、後続の兵に踏みつけられる。
低い位置から突き出されるドワーフの短槍や戦斧が、帝国兵の無防備な足や下腹部を正確に抉る。
「ぐあああっ! 足が!」
「押せない! こいつら、岩か!?」
重心の低いドワーフに対し、人間は上から覆いかぶさるしかない。だが、ドワーフの盾は上からの圧力に対し、構造的に最も強い角度で構えられている。
五千対五万。十倍の兵力差がありながら、接触線は微動だにしなかった。これこそが、五千年間一度も破られたことのないカラク・ホルンの伝説、『鉄壁の陣』であった。
だが、時は帝国の味方であった。
一時間、二時間。
終わりのない波状攻撃。死体を乗り越え、次々と新しい兵が押し寄せる。ドワーフたちは不眠不休で支え続けるが、その鉄の腕にも疲労の色が見え始めた。
じり、じり……。
鉄壁のラインが、わずかに、しかし確実に後退を始める。
「……まずいな」
城壁の上から戦況を見守っていた氏康が呟いた。
「個の強さでは勝るが、数の暴力には限度がある。このまま押し込まれれば、城門内で圧死するぞ」
氏政は、焦燥に駆られていた。今すぐ援軍を出すべきか? いや、乱戦になれば鉄砲が撃てなくなる。
氏康は、息子の迷いを見透かしたように言った。
「氏政。戦機を見誤るな。ブロック殿が『支えきれなくなった時』と言ったのは、負ける時ではない。『敵が、力押しで勝てると確信し、全軍を密集させた時』だ」
氏政はハッとして戦場を見た。
ドワーフが後退したことで、帝国軍は勝利を確信し、我先にと中央へ殺到している。その結果、敵の陣形は極限まで圧縮され、身動きが取れないほどの過密状態になっていた。
――今だ。
氏政は軍配を握りしめ、腹の底から叫んだ。
「――綱成叔父上ッ! お役目、御免ッ!!」
その瞬間を、門の陰で待ち続けていた男がいた。
愛馬『黒雲』に跨り、全身から黄金の闘気を湯気のように立ち昇らせる武神。
北条綱成。
彼の背には「地黄八幡」の旗指物が、風もないのに激しくはためいている。
「……待ちくたびれたわ」
彼は獰猛に笑い、手綱を引いた。
戦場では、ブロック王が吼えた。
「――中央、開けよッ!!」
その号令と共に、ドワーフの盾壁の中央部分が、観音開きのように左右へ割れた。
帝国兵たちは、突然目の前に現れた空間に、バランスを崩して雪崩れ込む。
「開いたぞ! 突っ込……」
歓喜の叫びは、絶望の悲鳴に変わった。
その死の回廊の奥から、黄金の閃光が飛び出してきたからだ。
「――我こそは北条綱成なりッ! 我と思わん者は、かかってこいッ!」
ドワーフたちが作り出した完璧な花道を、綱成率いる千の騎馬隊が、砲弾のように駆け抜けた。
激突の衝撃はなかった。
ただ、破砕音だけがあった。
【剣聖】の力が宿る大身槍が、黄金の旋風となって帝国兵を薙ぎ払う。盾ごと、鎧ごと、人間が紙切れのように宙を舞う。
密集しすぎていた帝国兵は、避けることも、武器を振るうこともできない。綱成という巨大な楔に、中央から真っ二つに裂かれていく。
「バケモノだ!」
「逃げろ! 踏み潰される!」
統率は崩壊した。前進しようとする後続と、逃げようとする前衛がぶつかり合い、帝国軍は自壊を始めた。
綱成は止まらない。
敵陣の深くまで切り込むと、彼は馬上で槍を振るい、周囲の敵を真空の刃で吹き飛ばした。
「足りぬ! 物足りぬわ! 帝国の武とは、この程度か!」
その圧倒的な武威。戦場を支配するカリスマ。
ドワーフたちは盾を叩いて囃し立て、城壁の北条兵は狂ったように歓声を上げた。
帝国軍は、蜘蛛の子を散らすように撤退を開始した。
攻城櫓は乗り捨てられ、破城槌は打ち棄てられた。
綱成は、逃げ惑う敵の背中を悠然と見送ると、血振るいをして槍を収めた。
そして、城壁の上の氏政に向かって、ニヤリと片手を上げて見せた。
二日目の戦いもまた、北条軍の完全勝利で幕を閉じた。
だが、この圧倒的な勝利の裏で、地面の下では、別の悪意が静かに進行していた。
魔法も、物量も通じぬと悟った帝国の毒牙。
「土竜」と「暗殺者」が、小田原の喉元へと忍び寄っていたのである。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




