第七十八話:嵐の前の評定
帝国十字軍の出陣から、二月が過ぎた。
小田原城は、死刑台へ向かう囚人のような、重く、冷たい静寂に包まれていた。風魔の斥候がもたらした報せによれば、十字軍の先鋒部隊は既に国境を越え、あと十日もすればこの城壁の下に姿を現すという。
死の足音が、確実に近づいている。
その、空気が張り詰めて弾け飛びそうな昼下がり。
遠見の櫓に立つ見張りの兵が、枯れた喉で絶叫した。
「……北の街道より、人影! 数は五つ! こちらへ向かってまいります!」
城内がにわかに色めき立つ。この非常時に、北から来る者などいるはずがない。敵の奇襲か、あるいは幻か。
だが、本丸の氏康だけは、その報せを聞くと、口元をわずかに緩めた。
「……帰ってきたか。我が国の、真の宝たちが」
彼は即座に命じた。
「大手門を開けよ。凱旋だ」
やがて、城門の前に五つの影が姿を現した。
幻庵、綱成、小太郎、リシア、そしてドルグリム。
彼らが纏う衣は、極北の吹雪と死闘によってボロ布のように引き裂かれ、その体は泥と乾いた血にまみれていた。頬はこけ、足取りは重い。
だが、その瞳だけが、異様な光を放っていた。
世界の深淵を覗き込み、その闇を見てきた者だけが宿す、深く、冷たく、そして揺るぎない、覚悟の光。
五人の英雄は、無言のまま城門をくぐる。その背中には、言葉にならぬ「世界の重み」が乗っていた。
◇
その日の深夜。
本丸御殿の奥深く、外の喧騒から隔絶された密室に、連合軍の首脳陣だけが召集された。
上座には氏康。その隣に、指揮官としての重圧に耐え、顔を引き締めた氏政。
円卓を囲むのは、ドワーフ王ブロック、エルフの長エルウィン、オーク族長グルマッシュ、騎士王ゲオルグ、そして自由都市同盟の代表。
その中心に、旅から戻ったばかりの五人が座している。
「――皆、聞いてほしい」
幻庵が口を開いた。その声は枯れていたが、部屋の隅々まで染み渡るような重響があった。
彼は『沈黙の図書館』の最深部で目にした『創世神話の原典』の内容を、一切の虚飾を排して語り始めた。
「我らが『転移』と呼んだ現象。……それは、救済ではございませなんだ」
幻庵は、誰かを責めるように、あるいは自分自身を嘲笑うように言った。
「この星、テラ・ノヴァは、不治の病を患っております。周期的に生命力が枯渇し、死に瀕する。その病を癒すため、この星は異界から生命力に満ち溢れた文明を、その民ごと『種子』として強制的に移植するのです」
「種子……?」
エルウィンが眉をひそめる。
「左様。移植された種子は、この地で根付き、文明を築き、繁栄する。そして数百年、数千年を経て文明が爛熟し、魂の総量が頂点に達した時……再び『大災害』という名の『収穫期』が訪れる」
幻庵の声が震えた。
「星は、文明が蓄えた全ての生命力、全ての魂を根こそぎ喰らい尽くし、若さを取り戻す。……我々は、家畜なのです。肥え太らされ、最後に食卓へ並べられるための」
そして幻庵は、最も残酷な真実を、異種族の長たちへと告げた。
「そして、その種子は我らだけではない。『原典』にはこう記されておりました。『初めに森の子らありき。次に山の子らありき』と。……ブロック王、エルウィン殿。そなたたちの祖先もまた、かつてこの星に選ばれ、喰われるために連れてこられた、哀れな供物であったのです」
静寂。
呼吸することさえ憚られるような、絶対的な静寂が支配した。
ブロック王が、わななく手で自慢の髭を握りしめる。エルウィンは顔面を蒼白にさせ、魂が抜けたように虚空を見つめている。グルマッシュでさえ、その巨体を小さく縮こまらせていた。
「……嘘だ」
ブロック王が、呻くように言った。
「幻庵殿……そなたは、我らドワーフの五千年の歴史を……祖先が血と汗で岩盤に刻み込んできた誇りを、ただの『餌』を作る作業だったと申すか。我らが振るった槌音は、星の腹を満たすための調理の音だったと言うのか!」
その声は、怒りを超えた悲痛な叫びだった。
エルウィンが、糸が切れた人形のように首を垂れる。
「……ならば、我らが守ってきた森とは、一体何だったのです。精霊の歌も、生命樹の輝きも、全ては我らを逃がさぬための檻だったと……? 我々は、檻の中で無邪気に歌う家畜だったのですか」
「神は、おわさぬのか」
サー・ゲオルグが天を仰いだ。
「我らが祈りを捧げた神は、慈悲深き父などではなかった。ただ、畑を耕し、作物の出来を検分し、収穫の時を待つ冷徹な『農夫』であったと……。我々の正義も、祈りも、全ては農夫を喜ばせるための茶番……」
アイデンティティの崩壊。
それぞれの種族が拠り所にしてきた歴史、信仰、誇り。その全てが「食料」という一点に収束し、無価値化されていく。
戦う意味などない。勝ったところで、待っているのは「収穫」という名の全滅だ。
絶望が、伝染病のように広間を侵食していく。
その、凍てついた空気を破ったのは、笑い声だった。
ククッ……ハハハ……!
玉座に座す北条氏康が、肩を震わせ、堪えきれないように喉を鳴らして笑い始めたのだ。
その不謹慎極まりない態度に、全員の視線が彼に突き刺さる。狂ったのか。この期に及んで。
「……面白い」
氏康は笑い収めると、ゆっくりと立ち上がり、広間の中央へと進み出た。
その顔に、絶望の色はない。あるのは、自らの想像を遥かに超える巨大な敵と出会った武人の、獰猛なまでの歓喜。
「世界の理が、我らを喰らうというのなら、その理ごと、喰らい返してくれるわ」
「な……」
ブロック王が絶句する。
「ブロック殿。そなたの五千年の歴史は、餌などではない。それは、この理不尽な星に初めて牙を剥くための、五千年かけて鍛え上げられた『最強の槌』よ」
氏康は、エルウィンに向き直る。
「エルウィン殿。そなたが愛した森は檻ではない。その農夫の目を欺き、その喉元を掻き切るために研ぎ澄まされた『隠れ処』だ」
「グルマッシュ殿。そなたは喰われるだけの家畜か? 違うな。その農夫の最も硬い骨を噛み砕く、『最強の牙』であろう」
氏康は、天を指差した。天井の向こう、遥か彼方にある「星の意志」を見据えるように。
「皆、顔を上げよ! 敵は帝国だけではない。この世界の、理不尽な運命そのものよ! なんと壮大な喧嘩か!」
「ならば話は早い。まず目の前の帝国の犬どもを叩き潰し、この大陸の全ての力を我らの旗の下に束ねる。そうして初めて、我らは天と、この星の運命と交渉する卓に着くことができる!」
その論理の飛躍。傲慢なまでの自信。
だが、その言葉は、絶望に沈んでいた指導者たちの魂に、強烈な火花を散らした。
家畜として死ぬか。それとも、反逆者として戦うか。
答えは、彼らの血の中にあった。
「……ふん。面白い! 実に面白いわい、ホウジョウ・ウジヤス!」
ブロック王が、テーブルを叩いて立ち上がった。その目に、以前よりも激しい炎が宿る。
「星の運命と喧嘩するだと? それこそ、我らドワーフが五千年間、無意識に待ち望んでいた『最高の戦場』かもしれんわ!」
「ガハハハ! 神だか星だか知らんが、俺たちの牙が通じるか試してみるのも悪くねえ!」
グルマッシュが戦斧を鳴らす。
ゲオルグも、エルウィンも、その表情から迷いが消え、戦士の顔に戻っていた。
氏康は、その光景を満足げに見渡すと、最後に厳しい声で釘を刺した。
「――だが、この真実、民に知らせる必要はない」
広間が静まり返る。
「民に必要なのは、絶望ではなく希望じゃ。明日の飯と、安らかな眠りじゃ。この『世界が終わる』という星をも揺るがす重荷は、我ら、上に立つ者だけで背負う」
「民には、ただ勝利を約束せよ。そして我らは、その裏で、必ずやこの理不尽な運命を覆す。……それこそが、王たる者の務めぞ」
その言葉は、孤独な、しかし誇り高い誓いであった。
北条家と連合軍のリーダーたちは、この夜、共犯者となった。
世界の真実という毒を飲み干し、それでもなお民の前では希望を語り、戦い抜くという、茨の道を歩む覚悟を決めたのだ。
「全軍、配置につけ!」
氏康の号令が飛ぶ。
「客人はすぐそこまで来ている。我らが築き上げた『国』の力を、存分に見せつけてやれ!」
嵐の前の静寂は破られた。
彼らの戦いは、もはや生存競争ではない。
神話の時代から続く、星と生命の、最初で最後の反逆戦争の始まりであった。
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