第七十七話:若獅子
大陸中央、神聖帝国の首都ルーメン。その東門に広がる大平原は、血の色に染まっていた。
沈みゆく夕陽のせいではない。地平線の彼方まで大地を埋め尽くす、三十万の十字軍が纏う深紅のサーコートと、無数の軍旗が、世界を赤く塗り潰していたのだ。
鉄と革の匂い、馬のいななき、そして三十万の人間が発する熱気と狂気が入り混じり、大気は歪んで見えた。
その鉄の海の中心、急ごしらえの巨大な祭壇の上に、枢機卿ロデリクは立っていた。
深紅の法衣を風になびかせ、彼は眼下に広がる有象無象を見下ろす。彼にとって、この三十万の命は兵士ではない。自らの「正義」を実現するための、薪に過ぎなかった。
彼は両腕を天に掲げた。拡声の魔道具が増幅したその声は、雷鳴のように平原を震わせ、兵士一人ひとりの鼓膜ではなく、脳髄を直接揺さぶる。
「神の子らよ! 聞け!」
「東の果て、汚らわしき森の奥に、神を冒涜する異端の巣が生まれた! 奴らは獣と交わり、禁忌の技を弄び、神が定めた聖なる秩序を泥足で踏み荒らしている!」
ロデリクの声には、魔力が乗っていた。聴く者の理性を麻痺させ、恐怖を怒りに、不安を狂信へと変換する、洗脳の言霊。
「奴らがもたらす偽りの豊かさは毒だ! 魂を腐らせ、信仰を忘れさせる甘美な罠だ! 故に、これは戦争ではない! 腐った肉を焼き払い、世界を浄化するための『治療』である!」
「この戦いで流れる血は、汝らの罪を雪ぐ聖水となる! 異端の城を粉砕し、石垣の一つに至るまで神の怒りを刻み込め! 慈悲は無用! 殺せ! 焼き尽くせ! それこそが、至高の祈りである!」
その言葉が、導火線となった。
抑圧された恐怖、生活への不満、行き場のない暴力衝動。それら全てが「信仰」という名の正当性を与えられ、爆発的な熱狂となって噴出した。
「「「神に栄光あれ! 枢機卿猊下に勝利を!」」」
「「「殺せ! 異端を殺せ!」」」
一人の騎士が剣を突き上げれば、波紋のように三十万の槍が天を突き刺す。地鳴りのような歓声が、黄昏の空を引き裂いた。
ロデリクはその狂騒を、陶酔した瞳で見下ろしていた。
進軍の角笛が、不吉な怪鳥の鳴き声のように響き渡る。鉄の濁流が、東へ――小田原へ向けて、ゆっくりと、しかし止めようのない質量を持って動き出した。
◇
同じ頃。東の果て、小田原城。
城は、死んだように静かな黄昏に包まれていた。だが、それは諦めの静寂ではない。嵐の前の、弓の弦が極限まで引き絞られたような、張り詰めた緊張の静寂であった。
本丸の最上階。総大将・北条氏康は、西の空を睨んでいた。
その隣には、若き当主、氏政が控えている。彼の顔色は悪く、握りしめた拳は小刻みに震えていた。
氏康は、眼下に広がる城下を見下ろした。
女たちが子供の手を引き、地下の退避壕へと急ぐ。
城壁の上では、兵士たちが無言で火縄銃の手入れをし、エルフたちが対魔法障壁発生装置に祈りを込めてマナを注いでいる。誰もが、来るべき終わりの時を予感しながら、それでも動いていた。
「……氏政よ。怖いか」
父の、あまりに唐突で、そして核心を突く問い。
氏政は息を呑み、視線を泳がせた。強がることはできた。だが、この父の前で嘘はつけない。
「……はい。怖うございます」
彼は正直に吐露した。
「幻庵殿も、綱成叔父上も、小太郎殿も、今ここにはおられぬ。父上がおられるとはいえ、あまりに多くのものが欠けたまま、三十万の大軍を迎え撃たねばならぬ。……私の双肩には、この国は重すぎます」
「うむ」
氏康は短く頷いた。叱責はない。
「その恐怖、忘れるな。恐怖を知らぬ者は、ただの猪武者よ。震える足で、それでも逃げずに踏み止まる。それこそが『勇気』だ」
氏康は櫓の欄干に手を置き、城の防衛線の要、大手門を指差した。そこでは、ドワーフの鉄壁兵団と北条の精鋭たちが、最後の陣地構築に追われている。
「氏政。そなたに、此度の戦における役目を申し渡す」
「……はっ」
「そなたに、あの大手門を中心とした、前衛全ての指揮を委ねる」
「……!?」
氏政は絶句した。それは、最も敵の圧力が集中する、文字通りの死地だ。
「父上! 私に……そのような大任が……!」
「わしは本陣にて全体の指揮を執る。だが、戦場の空気は刻一刻と変わる。本陣からの采配では間に合わぬ時が来る。その時、現場で決断を下せるのは、そなたしかおらぬ」
氏康は、息子の目を真っ直ぐに見据えた。
「失敗は許されぬ。そなたの采配一つで、数千の兵が死ぬ。国が滅ぶ。……その重さに耐え、それでも命を下せるか」
それは、父が子に与えた、あまりに過酷な試練。王となるための、通過儀礼。
氏政は、乾いた唇を舐め、大きく息を吸い込んだ。腹の底に力を込め、震えを強引にねじ伏せる。
彼は、父の瞳を見つめ返し、腹の底から声を絞り出した。
「――承知いたしました! この北条氏政、身命を賭して、小田原の門を死守してみせまする!」
◇
その夜、氏政は一睡もすることなく、前線の陣地を回り続けていた。
自分の足で歩き、自分の目で確かめなければ、不安で押し潰されそうだったからだ。
大手門の防衛陣地。そこでは、ドワーフ王ブロックが、自ら巨大な槌を振るい、防壁の杭を打ち込んでいた。
「ブロック殿。夜分に申し訳ない」
「おお、氏政殿か。構わん、どうせ戦の前は血が騒いで眠れんわい」
ブロック王は汗を拭い、氏政を見下ろした。岩のような巨体から放たれる威圧感。だが、その瞳は理知的で、温かかった。
「聞いたぞ。ここを指揮するのは、お主だそうだな。……震えておるな」
「……お恥ずかしい限りです」
「恥じることはない。震えながらも、お主はここに来た。わしらドワーフは、口先だけの勇者より、震える足で立つ男を信じる」
ブロック王は、ニヤリと笑い、愛用の戦槌で氏政の肩を軽く叩いた。
「案ずるな。親父殿との盟約だ。この鉄壁兵団、お主の命がある限り、この門を蟻一匹通しはせんわ」
次に、城壁の上の鉄砲隊。
篝火の明かりの下、若い足軽たちが火薬の調合をしていた。皆、顔色が悪い。氏政の姿を見ると、緊張して直立不動になる。
「楽にせよ」
氏政は、一人の足軽の前に立った。まだ元服したばかりのような、幼さの残る少年だ。
「……怖いか」
「は、はい! ……死ぬのは、怖いです」
少年は正直に答えた。
「だが、逃げぬのか」
「……母ちゃんと妹がいます。俺が逃げたら、あいつらが殺されます。だから……ここで死ぬなら、本望です」
その言葉に、氏政は胸を打たれた。
自分と同じだ。誰もが震え、誰もが恐怖し、それでも「守りたいもの」のために、ここに立っている。自分一人が重荷を背負っているのではない。この数万の兵、一人ひとりが、それぞれの重荷を背負い、支え合っているのだ。
「そうか」
氏政は、少年の肩に手を置いた。
「安心しろ。死なせはせん。わしの策と、そなたらの力があれば、必ず勝てる。……家族の元へ、必ず帰してやる」
それは、自分自身への誓いでもあった。氏政の言葉に、少年の目に少しだけ光が戻った。
夜明け前。
一騎の早馬が、土煙を上げて城門へ駆け込んできた。風魔の斥候だ。その装束は泥と血にまみれ、馬も限界まで泡を吹いている。
「申し上げます! 帝都より確たる報せ! 三十万の十字軍、遂に進軍を開始いたしました!」
その報告は、瞬く間に本陣へと伝えられた。
櫓の上、氏康は東の空を見つめていた。
「……して、奴らがここに達するのは」
「はっ! 渡河や補給を鑑みれば、早くとも三月!」
三ヶ月。
それは長いようで、国運を賭した準備にはあまりに短い時間。
氏康は、隣に立つ息子に、静かに告げた。
「氏政。時は来た」
その声は、冷徹な総大将のものだった。
「全軍に通達せよ。――これより、国を挙げた『饗応』の準備に入る。客人たちを、万全の態勢で迎え入れ、一人残らず地獄へ送り返してやれ」
決戦へのカウントダウンが、今、動き出した。
氏政は、震える拳を固く握りしめ、西の空を睨みつけた。若き獅子の瞳に、覚悟の炎が灯る。
「――全軍、準備ッ! この小田原を、奴らの墓場にしてくれるわ!」
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