第七話:小田原新法度
「灰カビ病」の脅威に治療の目処が立ったことで、城下にはひとまずの安堵が広がっていた。
ドワーフのドルグリムが、山の仲間を数人連れて城下の工房に通い始め、エルフのリシアが、薬草の知識を医療院で教える。
そんな光景も、少しずつ日常となりつつあった。
しかし、異なる文化を持つ者たちが交わる時、新たな火種が生まれるのもまた、世の常であった。
「――だから、この歪みは許せんと言っておるのだ!」
城下の市場の一角で、ドワーフの職人が、日本の大工相手に声を荒らげていた。
ドワーフが指さすのは、組み上げられたばかりの棚。彼らの目には、それは到底、実用に耐えるとは思えぬ、粗悪品に映っていた。
「見た目ばかりを取り繕って、芯の通っておらん! こんなものは仕事とは言えん!」
対する大工も、引き下がらない。
「こちとら、言われた通りのもんを作ったまでだ! 木の風合いも読めねえ無骨者に、何がわかる!」
町奉行の任に就く大道寺政繁は、その光景を見て、深くため息をついた。
暴力沙汰には至っていない。だが、互いの「仕事」に対する価値観、美意識の根本的な違いが、険悪な空気を作り出していた。このような小さなすれ違いが、城下の至る所で起き始めていた。
その夜、政繁は、主君であり親友でもある北条氏政に、厳しい表情で現状を報告した。
「氏政様、もはや看過できませぬ。些細な揉め事が、日に日に増えております。今のところは口論で済んでおりますが、いずれ、血を見る騒ぎになりかねません。我らの法は、彼らの『道理』には通用しませぬ」
「……私も、同感だ」
氏政は、唇を噛んだ。
彼の元にも、目安箱を通じて同様の訴えが複数、寄せられていたのだ。
報告は、直ちに本丸の氏康の元へもたらされた。
評定の席には、幻庵や綱成に加え、遠山綱景ら宿老たちも顔を揃えている。
氏康は、腕を組んで静かに報告を聞いていたが、やがて口を開いた。
「……国が乱れるは、法が乱れるからに他ならぬ。この異世界で、我ら八万の民が安寧に暮らすためには、まず、揺るぎない法の礎を築かねばならぬ」
氏は康は、一同を見回し、厳かに宣言した。
「これより、『小田原新法度』の制定を始める!氏政、そなたにその取りまとめを命ずる。幻庵殿、紅雪斎も、その知恵を貸すがよい! 時は無い、急げ!」
その日から、評定は夜を徹して行われた。
氏政、政繁、幻庵、紅雪斎らを中心に、新たな法案が練り上げられていく。
リシアやドルグリムからも、各種族の慣習について詳しく聞き取りが行われた。
そして数週間後、城下の高札場に、真新しい木の札が掲げられた。そこには、墨痕鮮やかに、制定されたばかりの『小田原新法度』の条文が記されていた。
「第一条【殺傷・傷害の罪】:理由の如何、また相手の種族を問わず、この小田原領内において、人を殺傷することを禁ず…」
「第二条【窃盗・略奪の罪】:他者の財産を盗むことを禁ず。特に、領全体の食料安全を脅かす、あるいは、民の生存に不可欠な物資を不当に独占する行為(買占・売惜)は、これを重罪と見なす…」
「第三条【自然資源の管理】:森の木々の無断伐採、河川の汚染を禁ず。資源の利用は作事奉行の許可を要する」
「第四条【商取引の公正】:取引において、相手の無知や立場を利用し、不当に利益を得ることを禁ずる」
……など、全十三条からなる新法度は、役人たちによって大声で読み上げられ、民衆に周知徹底されていった。
新生・小田原領に、初めて、全ての民が従うべき秩序が生まれた瞬間であった。
◇
――小田原新法度が公布されてから、一月が過ぎた。
城下の秩序は、目に見えて改善されていた。明確な法ができたことで、民は安心して日々の営みに励むことができるようになったのだ。
その日も、氏政と政繁は、目安箱に投じられた書状を検分していた。
大半は、新たな生活への感謝や、小さな願い事を綴ったものだった。だが、その中に、震えるような筆跡で書かれた一通の訴状があった。
「……これは」
氏政は、眉をひそめた。
「『…大黒屋嘉兵衛が、新法度が出た後も、塩や釘を蔵に隠し、我ら職人に法外な値で売りつけております。このままでは、我らは仕事もできず、飢え死にする他ありませぬ。どうか、公正なるお裁きを…』」
政繁が、苦々しげに読み上げる。
大黒屋嘉兵衛。法が公布された後も、己の私腹を肥やすことをやめぬとは、法と北条家そのものへの、明確な挑戦であった。
「……政繁。調べはついておるな」
「はっ。いつでも」
氏政の目に、もはや迷いはなかった。
その日の午後。
大道寺政繁率いる役人たちが、大黒屋の蔵に踏み込み、帳簿にない大量の隠匿物資を発見するのに、半刻もかからなかった。
三の丸広場にて、新法度下での、最初の裁きの場が設けられる。
罪人として引き出された嘉兵衛は、当初、ふてぶてしい態度であった。だが、氏政が、揺るぎない声で言い渡した言葉に、彼の顔は凍り付いた。
「大黒屋嘉兵衛! そなたの行いは、この非常時にあって、民の暮らしを脅かし、北条の統治を揺るがす大罪である!」
「一月前に公布されし、小田原新法度、その第二条に基づき、判決を言い渡す!」
不正に蓄えた全財産の没収と、自らが引き起こした配給の混乱が収まるまでの、無償の労役刑。
それは、彼の商人としての生命を絶つに等しい、厳しい裁きであった。
崩れ落ちる嘉兵衛の姿と、それを見つめる民衆の安堵の表情。氏政は、為政者としての重い責任と、そして確かな手応えを感じていた。
その夜。
小田原城下の一角、ドワーフたちが間借りする鍛冶工房は、まだ赤い火が灯っていた。
日中の裁きの噂話も、槌の音にかき消されている。
工房の主である日本の刀鍛冶が、研ぎ上げたばかりの一振りを、無言でドルグリムに差し出した。
ドルグリムは、それを受け取ると、陽の光ではなく、炉の炎にその刀身をかざして、じっくりと検分する。
彼の指が、波紋の上を滑り、折り返し鍛錬によって生まれた、木目のような地肌の文様を確かめるように撫でた。
長い沈黙の後、ドルグリムは、しみじみと呟いた。
「……いろいろ合わないところはあるが、この一見無駄とも思える、気が狂いそうな程の折り返し鍛造による“刀”というものは、本当に美しい」
その言葉に、刀鍛冶は、炉の火に視線を向けたまま、そっぽを向きながら答えた。
「……ふん、わかってんじゃねえか」
その口元が、ほんの少しだけ、にやついているのを、ドルグリムは見逃さなかった。
異なる文化を持つ二人の職人の間に、言葉ではなく、鉄と炎を通じた、確かな敬意が生まれた瞬間であった。
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