第七十二話:禁忌の囁き
第四階層『魔法の工房』を抜け、一行はさらに深く、静かな階層へと足を踏み入れた。
そこはこれまでのどの階層とも異なり、驚くほど狭い空間だった。
黒曜石でできた円形の小部屋。壁には書架すらない。部屋の中央に五つの黒い石の書見台が円を描くように設置され、それぞれに禍々しい鎖で固く縛られた一冊の魔導書が置かれているだけ。部屋全体がまるで一つの祭壇のようであった。
「……第五階層、『禁断の書架』」
扉の上に刻まれた文字を読み解いた幻庵の声が、緊張に微かに震えた。
空気が重い。鉛の外套を羽織らされたかのように精神が圧迫される。どこからともなく甘美で抗いがたい囁き声が、一行の脳裏に直接響き始めていた。
◇
一行が警戒しながら中央の書見台へ近づいた瞬間、五冊の魔導書が一斉にページをひとりでに開いた。
本から溢れ出したのは光でも幻影でもない。純粋な意思の力であった。
五人は見えざる壁によって互いから引き離され、それぞれが一冊の魔導書の前で金縛りにあったかのように動きを止めた。
互いの姿は見えても、声は届かない。
それぞれが魂に直接語りかけてくる禁忌の囁きと、たった一人で対峙していた。
◇
北条幻庵の前にあったのは『時の書』。
彼の脳裏に転移する前の小田原の光景が、あまりにも鮮やかに映し出される。平和であった頃の家族の笑顔。そして彼が生涯で唯一救うことのできなかった、若くして病で亡くなった最愛の妻の姿。
《戻れるぞ、賢者よ》
声が囁く。
《過去は変えられる。あの者を救える。このページの、一行をなぞるだけでよい……》
幻庵は、わななく手をそのページへと伸ばしかけた。
◇
北条綱成の前には『覇者の書』。
彼の脳裏に映し出されるのは未来。帝国との血みどろの決戦。城壁は崩れ、仲間たちが次々と刃の前に倒れていく。
《力が欲しいか、武神よ》
声が囁く。
《この力を受け入れよ。さすればそなたは真の神となる。誰一人死なせはせぬ。そなた一人の力で全ての者を守り抜ける、絶対的な力がここにある……》
あまりにも甘美な誘惑に、綱成は喉を鳴らした。
◇
風魔小太郎の前には『影の書』。
彼の脳裏に、帝国中に張り巡らされた黒薔薇騎士団の全ての密偵の動きが手に取るように映し出される。誰がどこで何を企んでいるのか、その全てが彼にはわかった。
《全てを知れ、影の者よ》
声が囁く。
《もはや仲間を失うことはない。全ての脅威を芽吹く前に摘み取ることができる。そなたは影の王となれるのだ……》
小太郎は失った部下たちの顔を思い出し、仮面の下で唇をきつく噛み締めた。
◇
リシアの前には『調和の書』。
彼女の脳裏に故郷イグドラシオンの光景が広がる。彼女が玉座に座し、その前に長老会議長ロエリアンが涙を流して自らの過ちを悔い、ひざまずいている。全ての同胞が彼女を、森を救った唯一の女王として讃えている。
《争いは終わらせられる、乙女よ》
声が囁く。
《この力を受け入れよ。さすれば全ての者がそなたを理解し、愛するであろう。もはや誰も傷つくことはない……》
リシアの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
◇
そしてドルグリムの前には『創造の書』。
彼の脳裏にドワーフの始祖さえも成し得なかった、究極の槌音が響き渡る。彼はミスリル銀を粘土のように操り、神々の武具さえも凌駕する伝説のアーティファクトを次々と生み出していた。
《至高の頂きへ至れるぞ、職人よ》
声が囁く。
《この知識を受け入れよ。さすればそなたは歴史上最も偉大な『創り手』となる。王も長老も、誰もがそなたの前にひざまずくであろう……》
ドルグリムはゴクリと喉を鳴らした。職人としてこれ以上の栄誉はない。
◇
五つの魂が同時に、その最も深い欲望を抉り出されていた。
誰もが甘美な誘惑に屈しかけた、その時。
「……違う」
最初に鎖を断ち切ったのは、幻庵であった。
彼は愛おしげに、そして悲しげに妻の幻影を見つめ、静かに首を横に振った。
「過去は変えられぬ。わしが守るべきは、今のこの者たちの未来じゃ」
彼の現実を見据える強い意志。その声がかろうじて他の仲間たちの心の壁を震わせた。
「……そうですわね」
次にリシアが涙を拭った。
「強制された調和など偽物です。わたくしは、たとえ時間がかかっても、わたくしたちの言葉で分かり合いたい」
「けっ! 盗んだ技で神になったとて、何の自慢にもなるか!」
ドルグリムもまた誘惑を一喝した。
「わしの誇りは、この傷だらけの掌にあるわい!」
「……我が役目は王となることではない。主君の影となることのみ」
小太郎も静かに瞳の光を取り戻した。
残るは綱成。
彼の葛藤は最も深かった。仲間を守るための絶対的な力。その誘惑はあまりにも強大であった。
だが、彼は苦しみながらもその力を拒絶した。
目の前で同じように自らの欲望と戦っている、仲間たちの姿を見た。
そして彼は、前回の試練で学んだ真の強さの意味を思い出した。
「わしの強さは仲間と共にあってこそ!」
彼は魂で咆哮した。
「一人だけの神となって誰を守れるというのだ! わしはこの泥にまみれた戦場で、仲間と共に哭き、笑い、そして戦う道を選ぶ!」
綱成の最後の決意が引き金となった。
五人の魂が禁忌の誘惑を完全に打ち破った瞬間、中央に置かれていた五冊の魔導書が甲高い悲鳴を上げ、黒い煙となって霧散した。
見えざる壁が消え失せる。
五人は、互いの顔を見合わせた。皆、顔面蒼白で冷や汗を流している。
その目には、これまでとは比較にならぬほど深く、揺るぎない仲間への信頼の光が宿っていた。
彼らは互いの、最も醜く、そして最も純粋な欲望の裸の姿を見た。そして互いがそれを自らの意志で乗り越える瞬間を見たのだ。
彼らの絆はもはや、ただの仲間意識ではない。魂の最も深い場所で結ばれた、真の「戦友」のそれへと昇華されていた。
やがて部屋の奥、次の階層へと続く扉が静かに口を開けた。その先にはこれまでにない、完全な無音の闇が広がっていた。
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