第七十一話:工房の悪夢
第三階層『文学の迷宮』を抜け、一行は、さらに深く、図書館の心臓部へと下っていった。精神の調和という、奇妙な試練を乗り越えた彼らの間には、言葉はなくとも確かな一体感が生まれていた。
やがてたどり着いた第四の階層。その入り口に刻まれた古代文字を、幻庵が読み解く。
「……第四階層、『魔法の工房』。どうやら、今度は、書物が相手ではなさそうですな」
扉の先に広がっていたのは、まさしく巨大な工房であった。
天井はドーム状に高く、壁際には、様々な色の液体で満たされた、家ほどもある巨大な釜が、いくつも並んでいる。
中央には、見たこともない、複雑な歯車と活版が組み合わさった、巨大なものが静かに鎮座していた。空気は、古い紙と、インクの化学的な匂い、そして、マナが放つ、オゾンのような刺激臭で満ちている。
「……罠の気配はない」
小太郎が、その鋭敏な感覚で周囲を探るが、物理的な仕掛けは見当たらない。次の階層へと続く扉も、広間の向こう側に見えている。
あまりに無防備。その事実が、逆に、一行の警戒心を極限まで高めさせた。
彼らが、広間の中央まで、慎重に足を進めた、その瞬間。
工房全体が、意思を持ったかのように、目を覚ました。
ゴポポゴポッ、と。壁際の釜から、色とりどりのインクが、粘性を帯びた生き物のように溢れ出し、床の上で融合し、不定形な体を持つ、おぞましいスライムへと姿を変えていく。
同時に、工房の隅に山と積まれていた羊皮紙のロールが、凄まじい速度で解け、紙自身が、鳥や、獣の形へと、ひとりでに折り畳まれていく。
「「「キシャアアアアアアッッ!!」」」
紙の獣が、甲高い、紙が擦れるような鳴き声を上げ、インクのスライムが、不気味な音を立てて一行へと殺到してきた。
「面白いッ!」
綱成が、真っ先にその脅威へと躍り出た。愛刀『獅子奮迅』が一閃され、紙の鳥が数羽、切り刻まれる。
だが、切り裂かれた紙片は、再び、別の紙と融合し、新たな獣となって再生してしまう。
「ええい、埒があかぬ!」
ドルグリムが、戦槌でインクのスライムを叩き潰す。だが、インクは四散し、それぞれが、また小さなスライムとなって、その数を増やしていく。
「皆様、下手に手を出してはいけません! 奴らは、無限に湧いてきます!」
リシアの悲鳴が響く。
ここは、ただの戦闘フロアではない。敵そのものが、無限に生産される、悪夢の工房であった。
◇
「皆、聞け!」
その混沌の中心で、幻庵の声が鋭く響いた。彼は、ただ防戦するのではなく、冷静にこの現象の「理」を観察していた。
「奴らは、ただの魔物ではない! この工房そのものが、奴らを生み出し続けておる! 本体は、あの大釜と、古びた装置じゃ! あれを破壊せぬ限り、この戦は終わらん!」
それが、一行に明確な戦術目標を与えた。
「よっしゃあ!」
ドルグリムが、咆哮した。
「わしの後ろに隠れろ! ここは一歩も通さんぞ!」
彼は、自らが打った守護のルーンが刻まれた大盾を、地面に突き立てる。それは、殺到するインクの濁流を、ただの一歩も通さぬ、鉄壁の防衛線となった。
「小太郎殿!」
「……心得た」
小太郎の姿が、ふっ、と消える。
彼の狙いは、巨大な印刷機。彼は、乱れ飛ぶ紙の獣たちを、まるで障害物などないかのように、その合間を縫って駆け抜ける。
そして、印刷機の、複雑な歯車の、ただ一点に、特殊な鋼で作られた楔を、寸分の狂いもなく打ち込んだ。
ガギィン、という嫌な音と共に、印刷機の動きが止まる。紙の獣たちの生産が、完全に停止した。
「残るは、大釜のみ!」
幻庵が叫ぶ。
「リシア殿! 釜の動力源は、火と土のルーン! そなたの、最も純粋な『水』と『風』の力で、その理を、逆転させるのじゃ! 奴らの創造の魔法を、無に帰すための、鎮静の魔法を!」
「……はい!」
リシアは、意を決してドルグリムが守る壁の中心で、静かに膝をつき両手を合わせた。この工房を鎮めるための、大魔法の詠唱を開始する。
だが、敵も、それを黙って見過ごしはしない。
インクのスライムたちが、その動きを止め、全て一点に集中し始めた。リシアという、この工房のシステムにとって、最も危険な「異物」を排除するために。
「させん!」
その、インクの津波の前に、北条綱成が、一人、仁王立ちになった。
「お前たち。リシア殿には、指一本、触れさせんぞ」
彼は、愛刀『獅子奮迅』を構えた。
【剣聖】の力が、解放される。彼の体から、黄金の闘気が溢れ出し、その存在そのものが、まるで、闇夜を照らす太陽のように、輝き始めた。
「――ここから先は、この地黄八幡が、相手となる!」
彼は、ただその場に立ち、リシアを守る絶対的な壁となった。殺到するインクの触手を、一本、また一本と、最小限の動きで完全に斬り伏せていく。その剣技は、もはや人の域を超え芸術の域に達していた。
「――風の友よ、水の同胞よ、どうか、わたくしに力を」
綱成が稼いだ、完璧な時間。その中で、リシアの詠唱は、クライマックスへと達していた。
彼女の体から、清冽な青と白の光が溢れ出し、工房全体へと、穏やかなだが抗いがたい波となって、広がっていく。
全てを源へと還す、鎮静と調和の力。
光の波が、巨大な釜に刻まれた、赤黒いルーン文字に触れた、その瞬間。
ジュウウウウウッ、という、水をかけた鉄のような音と共に、ルーンの光が、急速に失われていく。火と土の狂騒が、水と風の静寂に、飲み込まれていったのだ。
一つ、また一つと、釜が沈黙していく。
その度に、綱成に殺到していたインクのスライムたちも、その形を維持できず、次々と、ただの色のついた水たまりへと還っていく。
やがて、最後の釜の光が消えた時。
工房を埋め尽くしていた悪夢は、完全に活動を停止した。
工房に、静寂が戻る。
床には、黒や赤のインクが広がり、おびただしい数の、ただの紙切れが散乱していた。
一行は、荒い息をつきながらも、その中央に立っていた。ドルグリムの盾は、インクで汚れ、小太郎は、警戒を解いていない。綱成は、静かに刀を鞘へと納めた。
そして、リシアは、マナの使いすぎで、幻庵の肩に寄りかかりながらも、その顔には、自らの力で仲間を救った、確かな自信と誇りが浮かんでいた。
幻庵の分析、ドルグリムと綱成の防御、小太郎の破壊工作、そしてリシアの魔法。
五人の力が、一つの完璧な連携となって初めて、この悪夢を打ち破ることができたのだ。
彼らの絆は、この死闘を経て、さらに強固なものとなっていた。
やがて、工房の奥、次の階層へと続く扉が、ギィィ、と、重い音を立てて、ゆっくりとその口を開き始めた。
一行は、互いに頷き合うと、新たな試練が待つであろう闇の奥へと、再びその歩みを進めた。
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