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第六十九話:狂気の書庫

 

 第一階層『知識の回廊』を抜けた先。


 そこは、第一階層の、何もない無機質な空間とは、全く様相が異なる場所であった。


 一行が足を踏み入れたのは、ドーム状の、巨大な書庫。壁一面、そして、天高くそびえる書架の全てに、おびただしい数の、革や木で装丁された古文書が整然と並べられている。


 空気は、古紙と、インクと、そして、微かな魔力の匂いで満ちていた。

 幻庵が、その光景に、感嘆の息を漏らす。


「なんと……。これほどの書物が、一つの場所に……。これこそ、まさしく、知の宝庫じゃわい」

 一行は、辺りを警戒しながらも、その荘厳な光景にしばし圧倒されていた。


 扉の上部には、やはり、古代文字が刻まれている。


「……第二の階層、『歴史の書庫』か」

 幻庵の解読に、リシアも頷いた。


 書庫の中央には、ひときわ豪華な装飾が施された、黒曜石の書見台が一つだけ、ぽつんと置かれている。


その上には、一冊だけ巨大な魔導書が、まるで「読め」とでも言うように、開かれたままにされていた。


「……罠だな」

 小太郎が、短く呟く。


「うむ。迂闊に、あの書見台に近づくべきではあるまい」

 幻庵も同意し、一行は、まず周囲の書架から情報を集めることにした。


 ◇


「この文字は……古代ドワーフ王国の、英雄譚じゃな」

 ドルグリムが、一つの書物を指差し興奮したように言う。


「こっちには、エルフの、大精霊との契約の詩が……」

 リシアもまた、自らのルーツに触れ、その目に、懐かしさと畏敬の色を浮かべていた。


 綱成は、書物には興味を示さず、いつでも動けるよう、油断なく周囲を警戒している。

 幻庵は、一冊の分厚い革表紙の書物をそっと手に取った。それは、この世界のとある古代王国の興亡を記した歴史書のようであった。


 彼が、その最初のページを、指でめくった、その瞬間であった。

 ザワッ、と。

 書庫全体の空気が、震えた。


 次の瞬間、書庫に並べられた、何万、何十万という全ての書物が、一斉に意思を持ったかのように、ひとりでに開き始めたのだ。


「なっ……!?」

 ブワッ、と。


 開かれたページから、無数の光る文字や絵が、奔流となって溢れ出す。それらは陽炎のような、半透明の人影や風景となり、書庫の中を狂ったように飛び交い始めた。


 王の戴冠式。都市の崩壊。英雄の凱旋。そして、名もなき兵士の、無惨な死。

 ありとあらゆる時代の、ありとあらゆる場所の「歴史」が、声と、光と、そして、感情の奔流となって、一行の五感を、無慈悲に打ち据える。


「ぐっ……! 皆、気をしっかり持て! 精神を乱すな!」

 幻庵が叫ぶが、その声さえも歴史の喧騒にかき消されていく。


 リシアとドルグリムは、自らの種族の、壮大で悲劇的な過去の幻影に、心を揺さぶられ、その場に膝をついた。小太郎だけが、その感情のない精神で、かろうじて正気を保っていた。


 だが、その混沌の中で、ただ一人、北条綱成だけが奇妙なほど静かであった。


 彼は、書庫の中央に、仁王立ちになったまま、微動だにしない。その目は、虚空の一点を、見つめている。その顔には、苦痛ではなく、恍惚とした、そして、どこか獰猛な笑みが、浮かんでいた。


 ◇


 綱成は、もはや図書館にはいなかった。

 彼は、燃え盛る大地の上に、立っていた。


 空は、血のような赤色に染まり、地面は、無数の、異形の魔物の死骸で埋め尽くされている。彼の手には、愛刀『獅子奮迅』ではない、太陽の光そのものを鍛え上げたかのような、神々しい光を放つ、巨大な剣が握られていた。


 そして、彼の背後には、何万もの古代の兵士たちが、彼を救世主として、神として崇める熱狂的な視線を向けていた。


(……そうだ。これだ。これこそが、わしが求めていた、戦場……!)

 彼の魂は、歓喜に打ち震えていた。


 目の前には、地平線を埋め尽くさんばかりの、魔物の大群。その一体一体が、あの山のヌシにさえ匹敵するほどの、強大な力を持っている。

 だが、今の彼には、何の恐怖もなかった。


 彼の体には、神の如き力が、無限に、満ち溢れていたからだ。


「――おおおおおおおおっっ!!」

 彼は、咆哮した。


 そして、ただ一騎で、その絶望的な魔物の群れへと突撃していく。


 光の剣が一閃されるたびに、何十、何百という魔物が、光の塵となって消滅していく。彼は、傷一つ負わない。疲労さえも、感じない。ただ純粋な、戦いの悦楽だけが、彼の魂を満たしていく。


(……楽しい。なんと、楽しいことよ……! これこそ、わしが、生まれてきた意味……!)

 彼は、忘れ始めていた。


 自らが何者であったのかを。守るべき主君の名を。そして、共にこの図書館へ来た、仲間たちの顔を。


 この偽りの、あまりにも甘美な栄光の中で、彼の魂は、少しずつ輪郭を失い、ただの戦いを求める「概念」へと、変わり果てようとしていた。


 ◇


「綱成殿! 目を覚まされよ! 綱成殿!」

 幻庵たちの声は、もはや、綱成には届いていなかった。


 彼の体は、淡い黄金の光に包まれ、その周囲には、誰も近づくことのできない、不可視の障壁が展開されている。


「いけません! あの書見台の魔導書が、綱成様の魂を、直接、喰らっています!」

 リシアが、悲鳴に近い声を上げる。


 書庫の中央、黒曜石の書見台に置かれた巨大な魔導書だけが、禍々しい紫色の光を放ち、綱成の魂を、まるで養分とするかのように、そのページへと吸い上げていた。


「くそっ!」

 ドルグリムが、その書見台めがけて、槌を投げつける。だが、槌は、書見台に届く前に、見えざる壁に阻まれ、虚しく弾き返された。


 理的な攻撃が、一切通用しない、精神そのものを標的とした、極めて高度な、呪いの罠であった。

 幻庵は、唇を噛み締めた。


(……まずい。このままでは、綱成殿の魂は、完全に、あの書物に取り込まれてしまう) 


(どうする。どうすれば届く……)

 幻庵の脳裏に、綱成のこれまでの姿が次々と蘇る。


 血気盛んな猪武者で、誰よりも仲間思いで、そして、誰よりも、主君・氏康への、揺るぎない忠義を、その胸に抱いていた、あの不器用な男の姿を。


(……そうだ。奴を、この現実に繋ぎ止めている、最も強く太い楔。それは……!)

 幻庵は、意を決した。


 彼は、自らの全ての精神を、ただ一点に集中させ、魂そのものを言霊として放つ。

 共に戦国を生き抜いた、友への、一族の未来を託した、獅子への魂からの叫びであった。


「――綱成ッ! 目を覚ませッ!」


「そなたは、まやかしの英雄ではない! 北条綱成であろうが!」


「主に、民に、そして、共に死線を越えた仲間に、守るべきものがある者が、偽りの栄光に現を抜かすなッ!!」


「そなたは、我ら北条の『地黄八幡』あろうッ!!」


 幻庵の言霊が、ついに綱成の夢と現の境界を貫いた。

 魔物の大群の中で、無双の剣を振るっていた綱成の耳に、確かにその声が届いた。


(……幻庵、殿……?)

 彼の脳裏に浮かび上がる。


『行け。そなたの求める、武の頂へと』そう言って、自分を送り出してくれた、主君・氏康の静かな横顔。


『わしが、時間を稼ぐ』そう言って、自分の背中を、信じてくれた、仲間たちの、あの、真剣な眼差し。


(……そうだ。わしは……わしは、北条綱成……!)


(わしの剣は、わし一人の、自己満足のためにあるのではない!)


(殿のために! 民のために! そして、仲間たちの、未来を守るためにこそ、あるのだ!) 


 綱成の魂からの咆哮が、偽りの世界を内側から、粉々に打ち砕いた。


 ◇


「――う、おおおおおおおおっっ!!」

 綱成の現実世界での絶叫と共に、彼を包んでいた黄金の光が弾け飛んだ。


 書庫の中を飛び交っていた、全ての幻影が霧散し、何万冊もの書物が、一斉にそのページが、パタン、と閉じる。


 書庫に、再び静寂が戻った。

 綱成は、その場に、はぁ、はぁ、と荒い息をつきながら、膝をついていた。その全身は、びっしょりと、汗で濡れている。


「……綱成殿!」

 仲間たちが、彼の元へと駆け寄る。


 綱成は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、もはや虚ろではない。自らの未熟さを乗り越え守るべきもののために戦うという、真の覚悟を宿した将の目に戻っていた。


 彼は、心配そうに自分を覗き込む仲間たちの顔を、一人ひとり見つめると弱々しく笑った。


「……すまぬな。少し、良い夢を、見すぎていたようだ」

 その言葉に、幻庵も、リシアも、ドルグリムも、安堵の息をついた。


 書庫の中央。黒曜石の書見台にあった禍々しい魔導書は、その役目を終えたかのように、塵となって崩れ落ちていた。


 そして、その後には次の階層へと続く下り階段が、その暗い口を開けていた。

 一行は、互いに頷き合うと、新たな試練へと、再びその一歩を踏み出した。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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