第六話:見えざる敵
「最初の盟約」が結ばれた翌日、氏康は、リシアを本丸の一室に招いていた。
先の騒動で汚れていた彼女の森の衣は清められ、氏政の妻である黄梅院が用意した簡素だが清潔な着物が、そのしなやかな体躯を包んでいる。
「リシア殿、昨日はよくぞ報せてくれた。改めて礼を言う」
「……いいえ。わたくしは、ただ知っていることをお話ししたまでです」
リシアは、まだ緊張の色を隠せない。
人間に対する長年の不信は、そう簡単には消えないのだ。
氏康は、彼女の心の葛藤をその静かな瞳で見つめると、押し付けるのではなく、ただ一つの選択肢を示すように、穏やかに言った。
「そなたの故郷、シルヴァナールの森までは、ここから遠いと聞く。望むのであれば、我が兵に護衛をつけ、食料と共に送り届けさせよう。無論、そなたが望むなら、の話だが」
その言葉に、リシアの表情が曇った。
「お申し出、感謝いたします。ですが……わたくしは、故郷には帰れないのです」
「ほう。何か、帰れぬ事情でもあるのか」
氏康の問いに、リシアは唇をきつく結び、やがて、意を決したように顔を上げた。
「わたくしたちエルフの社会は、変化を嫌い、森から出ることを禁忌としております。ですが、オークの脅威は年々増しており、わたくしは、外の世界と手を取り合ってでも、民を守るべきだと長老会に進言いたしました。……けれど、聞き入れられず、逆に『外の思想にかぶれた危険分子』として、村の奥に幽閉されることになってしまったのです」
彼女の瞳に、悔しさと、強い意志の光が宿る。
「わたくしは、それに抗い、村を……家を捨てて、飛び出してまいりました。わたくしは、家出娘なのです。故郷に、わたくしの居場所はもう……」
そうであったか、と氏康は内心で頷いた。
彼女の行動の裏には、そのような葛藤があったのだ。それは、氏康が知る、家の存続のために、時に肉親とさえ争わねばならなかった戦国の世のあり方と、どこか似ていた。
「ならば、答えは出ておるな」
氏康は、静かに言った。
「リシア殿、そなたの心が定まるまで、この小田原に滞在されるがよい。そなたの知恵は、我らにとって何よりの宝。そして、我らの力が、いつかそなたの民を救う一助となるやもしれぬ」
「……はい」
リシアは、深く、深く頭を下げた。
「お言葉に、甘えさせていただきます」
こうして、エルフの少女リシアは、明確な目的を持って、新生・小田原領に滞在することとなったのである。
だが、平穏は長くは続かなかった。
彼女が滞在を決めてから半月ほどが過ぎた頃、城下に、見えざる敵が忍び寄っていた。
「げほっ、ごほっ……!」
町奉行の任に就く大道寺政繁は、城下の見回りの途中、路地裏で咳き込む男の姿を見て、小さく舌打ちした。
(ただの風邪ではない。この咳、この顔色……それに、この数日で同じような症状の者を三人見た。これは……!)
彼は、その背筋を走る冷たい予感に、即座に踵を返した。これは、一刻を争う事態だ。彼の報告は、主君である氏政を飛び越え、直ちに本丸の氏康の元へと届けられた。
評定の席には、幻庵や綱成に加え、遠山綱景ら宿老、そして氏康の息子たちである氏照、氏邦らも顔を揃えている。皆、戦の備えは出来ていても、目に見えぬ病という敵を前に、一様に表情は硬い。
氏政と政繁からの詳細な報告を受け、氏康は重々しく口を開いた。
「原因不明の病……患者は既に五十を超え、死者も出ておると。戦で死ぬのとは違う。病による死は、民の心を、内側から静かに破壊していく、最も厄介な敵だ」
彼は、一族の知恵袋に視線を向けた。
「幻庵殿、心当たりは?」
「……うむ。これは、我らの知る病ではない。この土地、この風土が生んだ、未知の病と見るべきじゃ。儂が直々に患者を診てみよう」
その日の午後、幻庵は数人の薬師を連れ、城下に設けられた療養所へと足を運んでいた。
そこは、病人の呻き声と、家族のすすり泣き、そして薬草を煎じる匂いが混じり合った、さながら地獄のような光景であった。
幻庵は、顔色一つ変えず、一人ひとりの患者の顔色を、脈を、そして咳の音を、冷静に観察していく。
その場には、自ら同行を願い出たリシアの姿もあった。
幻庵は、患者が吐き出した痰を、布に取らせ、陽光に透かして検分する。
「この、灰色の……」
その時、リシアが、その布を見て、はっと息を呑んだ。
「……幻庵様、それはいけません! そのカビを、直接吸い込んでは!」
彼女の顔からは、血の気が引いていた。それは、エルフが森で最も恐れる病の一つであった。
「リシア殿、この病を知っておるのか!」
幻庵の問いに、リシアは悲痛な表情で頷いた。
「はい……これは『灰カビ病』。森の湿った洞や、腐った大樹の根元に発生するカビの病です。胞子を吸い込むと、肺が内側から石のように固まり、息ができなくなって……最後には死に至ります」
その言葉に、周りの薬師たちが絶望の声を上げた。
だが、幻庵は動じなかった。
「……治す手立ては、あるのか」
「……わたくしたちエルフは、症状が軽いうちに、特別な薬草で進行を抑えることしかできません。一度、肺が固まり始めた者を、救う術は……」
リシアは、力なく首を横に振った。
報告は、直ちに氏康にもたらされた。
打つ手なしか、と誰もが諦めかけた、その時。
玉座に座す氏康が、力強く言った。
「――ならば、作るまでよ」
「……と、申しますと?」
「治す術がないのではない。我らが、まだ知らぬだけだ。幻庵殿、そなたを総監修とし、この小田原に『医療院』を設立する! この国の全ての医術の知恵を結集し、見えざる敵を討つのだ!」
その号令一下、北条家が持つ全ての医療知識――日本の漢方、ポルトガル伝来の南蛮医学、そして、この地で得たエルフの薬草学までもが、見えざる敵を討つという一つの目的のために、結集されようとしていた。
幻庵の推挙により、南蛮医学にも通じる医師・田村長伝を院長に据え、日本の漢方医、そしてリシアのエルフ薬草学の知見を持つ者たちが、一つの目的のために集められたのだ。
医療院では、日夜、研究が続けられた。
「リシア殿の言う薬草は、まず乾燥させるべきだ! 生薬の基本であろう!」
「いえ、エルフは生のまま、葉を潰して使います!」
「待て、南蛮のやり方では、これを酒に漬け込み、薬効成分を抽出するぞ!」
当初は、互いの流儀の違いから反発しあっていた医者たちも、幻庵の「流儀の違いは、見方の違い。一つの病に対し、我らは三つの太刀筋で挑めるのだ。これほど心強いことはあるまい」という言葉に、次第に結束を固めていった。
そして、数日後。
リシアが示した薬草を、日本の生姜や甘草と共に、特別な比率で長時間煮詰めた、濃褐色の薬湯が完成した。
「……試す価値は、ある」
幻庵は、その薬湯を、最初に倒れた、今や意識も朦朧としている足軽の元へと運ばせた。
家族が見守る中、薬湯が、ゆっくりと男の口へと注がれていく。
どれほどの時間が経ったか。
男の激しい咳が、ふと静まった。
ゼイゼイと鳴っていた喉の音が、僅かに、だが確かに和らいでいる。
完全に治ったわけではない。だが、それは、見えざる敵に対する、人類とエルフの知恵が生んだ、最初の反撃であった。
幻庵は、傍らで祈るように手を組んでいたリシアの肩を、そっと叩いた。
「……リシア殿。そなたの知恵が、我らの民を救う光となるやもしれぬ」
その言葉に、リシアは、こらえきれずに涙を流した。
人間は、森を奪うだけの存在ではなかった。共に、見えざる敵と戦うことができる、仲間でもあったのだ。
この日、設立された小田原医療院は、やがて異世界のあらゆる病に立ち向かう、大陸随一の医療研究機関へと発展していく。
だが、それはまだ、誰も知らない未来の話であった。
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