表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/102

第六話:見えざる敵

 

「最初の盟約」が結ばれた翌日、氏康は、リシアを本丸の一室に招いていた。


 先の騒動で汚れていた彼女の森の衣は清められ、氏政の妻である黄梅院おうばいいんが用意した簡素だが清潔な着物が、そのしなやかな体躯を包んでいる。


「リシア殿、昨日はよくぞ報せてくれた。改めて礼を言う」


「……いいえ。わたくしは、ただ知っていることをお話ししたまでです」

 リシアは、まだ緊張の色を隠せない。

 人間に対する長年の不信は、そう簡単には消えないのだ。


 氏康は、彼女の心の葛藤をその静かな瞳で見つめると、押し付けるのではなく、ただ一つの選択肢を示すように、穏やかに言った。

「そなたの故郷、シルヴァナールの森までは、ここから遠いと聞く。望むのであれば、我が兵に護衛をつけ、食料と共に送り届けさせよう。無論、そなたが望むなら、の話だが」


 その言葉に、リシアの表情が曇った。

「お申し出、感謝いたします。ですが……わたくしは、故郷には帰れないのです」


「ほう。何か、帰れぬ事情でもあるのか」

 氏康の問いに、リシアは唇をきつく結び、やがて、意を決したように顔を上げた。


「わたくしたちエルフの社会は、変化を嫌い、森から出ることを禁忌としております。ですが、オークの脅威は年々増しており、わたくしは、外の世界と手を取り合ってでも、民を守るべきだと長老会に進言いたしました。……けれど、聞き入れられず、逆に『外の思想にかぶれた危険分子』として、村の奥に幽閉されることになってしまったのです」

 彼女の瞳に、悔しさと、強い意志の光が宿る。


「わたくしは、それに抗い、村を……家を捨てて、飛び出してまいりました。わたくしは、家出娘なのです。故郷に、わたくしの居場所はもう……」

 そうであったか、と氏康は内心で頷いた。


 彼女の行動の裏には、そのような葛藤があったのだ。それは、氏康が知る、家の存続のために、時に肉親とさえ争わねばならなかった戦国の世のあり方と、どこか似ていた。


「ならば、答えは出ておるな」

 氏康は、静かに言った。


「リシア殿、そなたの心が定まるまで、この小田原に滞在されるがよい。そなたの知恵は、我らにとって何よりの宝。そして、我らの力が、いつかそなたの民を救う一助となるやもしれぬ」


「……はい」

 リシアは、深く、深く頭を下げた。


「お言葉に、甘えさせていただきます」

 こうして、エルフの少女リシアは、明確な目的を持って、新生・小田原領に滞在することとなったのである。


 だが、平穏は長くは続かなかった。

 彼女が滞在を決めてから半月ほどが過ぎた頃、城下に、見えざる敵が忍び寄っていた。


「げほっ、ごほっ……!」

 町奉行の任に就く大道寺政繁だいどうじまさしげは、城下の見回りの途中、路地裏で咳き込む男の姿を見て、小さく舌打ちした。


 (ただの風邪ではない。この咳、この顔色……それに、この数日で同じような症状の者を三人見た。これは……!)


 彼は、その背筋を走る冷たい予感に、即座に踵を返した。これは、一刻を争う事態だ。彼の報告は、主君である氏政を飛び越え、直ちに本丸の氏康の元へと届けられた。


 評定の席には、幻庵や綱成に加え、遠山綱景とおやまつなかげら宿老、そして氏康の息子たちである氏照うじてる氏邦うじくにらも顔を揃えている。皆、戦の備えは出来ていても、目に見えぬ病という敵を前に、一様に表情は硬い。


 氏政と政繁からの詳細な報告を受け、氏康は重々しく口を開いた。


「原因不明の病……患者は既に五十を超え、死者も出ておると。戦で死ぬのとは違う。病による死は、民の心を、内側から静かに破壊していく、最も厄介な敵だ」

 彼は、一族の知恵袋に視線を向けた。


「幻庵殿、心当たりは?」


「……うむ。これは、我らの知る病ではない。この土地、この風土が生んだ、未知の病と見るべきじゃ。儂が直々に患者を診てみよう」


 その日の午後、幻庵は数人の薬師を連れ、城下に設けられた療養所へと足を運んでいた。

 そこは、病人の呻き声と、家族のすすり泣き、そして薬草を煎じる匂いが混じり合った、さながら地獄のような光景であった。


 幻庵は、顔色一つ変えず、一人ひとりの患者の顔色を、脈を、そして咳の音を、冷静に観察していく。

 その場には、自ら同行を願い出たリシアの姿もあった。


 幻庵は、患者が吐き出した痰を、布に取らせ、陽光に透かして検分する。


「この、灰色の……」

 その時、リシアが、その布を見て、はっと息を呑んだ。


「……幻庵様、それはいけません! そのカビを、直接吸い込んでは!」

 彼女の顔からは、血の気が引いていた。それは、エルフが森で最も恐れる病の一つであった。


「リシア殿、この病を知っておるのか!」

 幻庵の問いに、リシアは悲痛な表情で頷いた。


「はい……これは『灰カビ病』。森の湿った洞や、腐った大樹の根元に発生するカビの病です。胞子を吸い込むと、肺が内側から石のように固まり、息ができなくなって……最後には死に至ります」

 その言葉に、周りの薬師たちが絶望の声を上げた。

 だが、幻庵は動じなかった。


「……治す手立ては、あるのか」


「……わたくしたちエルフは、症状が軽いうちに、特別な薬草で進行を抑えることしかできません。一度、肺が固まり始めた者を、救う術は……」

 リシアは、力なく首を横に振った。


 報告は、直ちに氏康にもたらされた。

 打つ手なしか、と誰もが諦めかけた、その時。

 玉座に座す氏康が、力強く言った。


「――ならば、作るまでよ」


「……と、申しますと?」


「治す術がないのではない。我らが、まだ知らぬだけだ。幻庵殿、そなたを総監修とし、この小田原に『医療院』を設立する! この国の全ての医術の知恵を結集し、見えざる敵を討つのだ!」


 その号令一下、北条家が持つ全ての医療知識――日本の漢方、ポルトガル伝来の南蛮医学、そして、この地で得たエルフの薬草学までもが、見えざる敵を討つという一つの目的のために、結集されようとしていた。


 幻庵の推挙により、南蛮医学にも通じる医師・田村長伝たむらちょうでんを院長に据え、日本の漢方医、そしてリシアのエルフ薬草学の知見を持つ者たちが、一つの目的のために集められたのだ。


 医療院では、日夜、研究が続けられた。


「リシア殿の言う薬草は、まず乾燥させるべきだ! 生薬の基本であろう!」


「いえ、エルフは生のまま、葉を潰して使います!」


「待て、南蛮のやり方では、これを酒に漬け込み、薬効成分を抽出するぞ!」


 当初は、互いの流儀の違いから反発しあっていた医者たちも、幻庵の「流儀の違いは、見方の違い。一つの病に対し、我らは三つの太刀筋で挑めるのだ。これほど心強いことはあるまい」という言葉に、次第に結束を固めていった。


 そして、数日後。


 リシアが示した薬草を、日本の生姜や甘草と共に、特別な比率で長時間煮詰めた、濃褐色の薬湯が完成した。


「……試す価値は、ある」

 幻庵は、その薬湯を、最初に倒れた、今や意識も朦朧としている足軽の元へと運ばせた。


 家族が見守る中、薬湯が、ゆっくりと男の口へと注がれていく。


 どれほどの時間が経ったか。

 男の激しい咳が、ふと静まった。


 ゼイゼイと鳴っていた喉の音が、僅かに、だが確かに和らいでいる。

 完全に治ったわけではない。だが、それは、見えざる敵に対する、人類とエルフの知恵が生んだ、最初の反撃であった。


 幻庵は、傍らで祈るように手を組んでいたリシアの肩を、そっと叩いた。


「……リシア殿。そなたの知恵が、我らの民を救う光となるやもしれぬ」

 その言葉に、リシアは、こらえきれずに涙を流した。


 人間は、森を奪うだけの存在ではなかった。共に、見えざる敵と戦うことができる、仲間でもあったのだ。


 この日、設立された小田原医療院は、やがて異世界のあらゆる病に立ち向かう、大陸随一の医療研究機関へと発展していく。

 だが、それはまだ、誰も知らない未来の話であった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

 皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ