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第六十七話:北への道

 夜明け前、最も濃い闇が小田原の城下を包み込んでいた。 民草が安らかな眠りについているその刻、城の大手門が、重い音を立てぬよう、僅かに開かれた。


 そこから、吐く息を白く染めながら、五つの人影と数頭の荷馬が、朝霧の中へと滑り出していく。 旅の学者とその弟子、そして彼らを護衛する腕利きの傭兵たち。


 それが、彼らの表向きの姿であった。だが、その正体は、この国の運命を双肩に担う、幻庵、リシア、ドルグリム、綱成、小太郎の五名である。


 彼らが目指すは、北。 頑固な職人たちが住まうドワーフの国、カラク・ホルン。そして、そのさらに彼方に広がる、いかなる地図にも「白紙」としか記されていない、極寒の荒野。


 世界の最果てに眠るという伝説の遺跡、『沈黙の図書館』を目指す、あまりにも長く過酷な旅の始まりであった。


 彼らは一度、背後にそびえる小田原城を振り返った。闇の中に浮かぶその巨大なシルエットは、彼らが守るべきものの象徴であり、必ず生きて帰るべき場所であった。無言のまま、彼らは再び前を向き、北へと続く街道にその一歩を踏み出した。


 ◇


 旅の最初の数日は、比較的穏やかな行程であった。 小田原の支配圏を抜け、北へと続くなだらかな丘陵地帯を進む。整備された街道は次第に細くなり、やがて踏み固められただけの古道へと変わっていく。一行は言葉少なに、しかし、驚くべき速度でその歩を進めていた。


「……幻庵様、少し休まれては?」

  昼餉の休憩中、リシアが心配そうに幻庵に声をかけた。


 彼女のエルフとしての感覚は、この老人が常人ならばとうに倒れていてもおかしくないほどの強行軍を続けていることを理解していた。


「わたくしたちエルフや、鍛え抜かれた武人ならばともかく、幻庵様のお体には過酷に過ぎます」

 だが、硬い黒パンをかじっていた幻庵は、涼しい顔で笑ってみせた。


  「ふむ。案ずるな、リシア殿。不思議なことじゃが、この世界に来てからというもの、どうにも体の調子が良いのじゃ」

 彼は立ち上がると、軽く屈伸をして見せる。


 その動きには、七十を超えた老人とは思えぬほどの、しなやかさと力強さが満ちていた。


「この地に満ちる濃密な『気』――そなたらの言うマナが、この老いぼれの骨身に、活力を与えてくれておるのかもしれぬな」


 その言葉通り、幻庵の足取りには疲れの色が見えなかった。元の世界では考えられぬことだが、この世界に満ちる豊富なマナが、無意識のうちに彼の生命力を活性化させ、現世にいた頃よりも遥かに高い水準へと身体能力を引き上げていたのだ。


 その事実は、これから向かう過酷な環境を考えれば、一行にとって一つの大きな幸運であった。 綱成が、頼もしげにその様子を見て、ニヤリと笑う。


「違いない。俺も、体が内側から燃えるようだ。この世界は、どうやら俺たちのような『戦う者』には、都合よくできているらしい」


 小太郎だけが、無言のまま周囲を警戒し続けていたが、その足取りの軽さは、彼もまたこの世界の恩恵を受けていることを示していた。


 十日が過ぎた頃、風景は一変した。 なだらかな丘陵は姿を消し、代わりに、天を突くような険しい岩山が連なる、大山脈の威容が目の前に立ちはだかった。


 冷たい風が吹き荒れ、遠くの山頂は既に厚い雪雲に覆われている。 その山脈の麓に、山肌を削り取って作られた、巨大な石の門が遠望できた。ドワーフの地下王国、カラク・ホルンの正門である。


 綱成が、前方にそびえるその威容を眺めながら、ドルグリムに問いかける。


「ドルグリム殿。ここからはあんたの庭だろう。堂々と門を通り、温かい寝床と美味いエールで英気を養おうではないか」


 だが、ドルグリムは苦々しげに首を横に振った。その表情には、故郷を前にしながらそこに入れない、複雑な思いが滲んでいた。


「いや、それはできん。我らのこの旅は、連合軍の中でも最高機密。王は我らに賛同してくださったが、国に残る評議会の長老たちの多くは、未だに人間との交流を快く思っておらん。彼ら保守派の耳に、この旅の真の目的が入れば、どのような妨害を受けるか分からん」


 幻庵も、その言葉に重々しく頷く。


  「ドルグリム殿の言う通りじゃ。敵は、帝国の残党や魔物だけではない。時として、味方の内なる疑念や、変化を恐れる心こそが、最も厄介な足枷となる」


 ドルグリムは、一行を街道から外れた、獣道のような脇道へと導いた。


「案ずるな。革新派の信頼できる仲間には、既に伝令を送ってある。城壁のずっと西、今は使われていない古い通気口で落ち合う手筈よ」


 一行はカラク・ホルンの正門を大きく迂回し、険しい山肌に沿って半日ほど進んだ。足元は悪く、滑落すれば命はないような危険な道であったが、彼らは互いに助け合いながら進んでいく。


  やがて、巨大な岩陰に巧妙に隠された、古い坑道の入り口へとたどり着いた。かつては鉱脈を探るために掘られ、今は放棄された忘れ去られた場所。 その暗闇の奥で、松明の明かりが小さく揺れた。


  待っていたのは、分厚い毛皮を着込んだ屈強なドワーフ。ドルグリムの愛弟子であり、革新派の同志であるバエリンであった。


「ドルグリム様! ご無事で何よりです!」

 バエリンが、駆け寄ってドルグリムの手を固く握る。


「おお、バエリンか。息災であったか。」


「ええ。王がいないなか、保守派の長老連中がのさばって大変です。特に北の『禁足地』へ向かうなどと知れれば、即座に衛兵隊が飛んでくるでしょう」


 再会を喜ぶのも束の間、バエリンの表情が曇る。彼がもたらした北の情報は、一行の顔を強張らせるに十分なものであった。


  「ドルグリム様、くれぐれもお気をつけくだされ。この先の峠を越えた北の地は、例年よりも遥かに寒さが厳しくなっております。風は刃のように鋭く、吐く息すらも凍りつくほどです」

 バエリンは声を潜め、さらに不吉な情報を付け加えた。


「それに、魔物たちの様子がおかしいのです。これまで山の深い場所にしか生息していなかったはずの、『氷爪熊アイスクロウ』のような凶暴な魔獣が、頻繁に目撃されております。それも、一頭や二頭ではなく、群れを成して……。どうにも、この山全体が、何かに怯え、落ち着きを失っておるようです」


 それは、幻庵が予見した『大災害』の前兆――マナの乱れが、この地の生態系にまで影響を及ぼし始めている証拠であった。


  「……猶予は、ないようじゃな」 幻庵の言葉に、全員が緊張した面持ちで頷く。


 バエリンたちは、自分たちが持ちうる最高の登山道具を、惜しみなく一行に提供してくれた。靴底に鋭いスパイクが付いた鉄靴、体温を逃がさぬ二重構造の分厚い毛皮の外套、そして、どんな極寒でも凍らないというドワーフ秘伝の火酒。


「持っていってください。我らには、これぐらいのことしかできませんが……どうか、ご無事で」

 バエリンが、涙を浮かべてドルグリムを見上げる。


「この恩は、必ずや」 ドルグリムは、友の手を固く、痛いほどに握りしめた。


「わしらが戻るまで、工房の火を絶やすでないぞ。帰ったら、土産話と共に、最高の新作を聞かせてやるからな」


 一行は、新たな装備に身を包み、バエリンたちに見送られながら、再び歩み始めた。 目指すは、さらに北。


 地図から道が消え、人の営みが絶える、真の未知なる領域。 冷たい風が、彼らの背中を強く押した。それは、まるで彼らを死地へと誘う、魔物の手招きのようでもあった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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