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第六十五話:未来への投資

 小田原会談が幕を閉じてから数日が過ぎた 。 城下は帝国との決戦に向け、かつてないほどの熱気を帯びていた 。


 ドワーフの鉄壁兵団と北条の足軽たちが合同で訓練に励み、工業地区では対魔法障壁発生装置の量産が昼夜を問わず続けられている 。


 誰もが数ヶ月後に迫るであろう未曾有の大戦に向け、自らの役割を全うしようとしていた 。


 その喧騒の中心であるはずの小田原城、本丸御殿の一室だけは水を打ったような静寂に支配されていた 。 夜。


 氏康の私室にごく限られた者だけが集められている 。 主君である氏康。嫡男であり内政の全てを担う氏政。一族の知恵袋、北条幻庵 。


 彼らの前に広げられているのは帝国の進軍経路を示す軍事地図ではない 。幻庵が各種族の伝承と数千年にわたるドワーフの『鉱山記録』を照合して作り上げた、大陸全土の『大地の診断図』とも言うべき禍々しい資料であった 。そこには過去に鉱脈が「焼き切れ」、大地が「ガラス化」した地点が不吉な印でいくつも記されていた 。


「父上。連合軍の編成は順調に進んでおります。兵糧の備蓄も黄梅院の力添えもあり、あと三月もすれば数年は籠城できるだけの量が確保できましょう」

  氏政の報告は為政者として完璧であった 。


 目の前の危機に対し考えうる限りの最善の手を打っている 。 だが氏康はその報告に頷きながらも、視線は大地の診断図から動かなかった 。


「氏政よ、そなたの働きは見事だ。なれど我らが真に戦うべき相手は帝国の三十万の軍勢だけではない」 氏康は診断図に記された過去の文明の滅びの跡を指し示す 。


「我らがいかにして帝国を退けようと、この『大災害』という避けられぬ終焉が我らの足元にある限りただの延命に過ぎぬ。我らが築き上げたこの国も民の笑顔も、いずれ全てが無に帰す」

 その重い言葉に氏政は息を呑んだ 。


  これまで沈黙を守っていた幻庵が静かに口を開いた 。


「殿。そして氏政様。道は、あるいは、一つだけ残されておりまする」

 幻庵は持参した一枚の古い羊皮紙を診断図の上に重ねるように広げた 。


 狩野元信が描き上げた大陸北方の地図であった 。


「北方の、ドワーフの国さえも超えた、極寒の荒野。その中心に、古代文明が遺したという伝説の遺跡がございます。その名を『沈黙の図書館』」

  幻庵の声が熱を帯びる 。


  「そこにはこの世界の全ての叡智が眠ると言われております。失われた魔法、古代の歴史、そして、あるいはこの『大災害』の正体と、それを乗り越えるための方法もまた、記されているやもしれませぬ」

 その言葉と共に、幻庵は自らその場に片膝をついた 。


  「殿、この役目、他の誰でもない、この老骨にこそお任せいただきたい。この世界の理不尽な理を解き明かすことこそ、わしがこの異世界で生を受けた天命にございます」

 幻庵自らの、あまりに強い覚悟 。


 それを見た氏康は静かに瞑目していた 。 彼はゆっくりと立ち上がると窓辺へと歩み寄り、眼下に広がる自らが築き上げた城下の灯りを見下ろした 。そこには明日を信じ懸命に生きる幾万の民の営みがあった 。


 やがて彼は振り返る。その絶対的な王としての決断を告げた 。


「――幻庵の策、採る」


  「父上!?」


  「氏政よ。そなたの言う通りまずは目の前の戦に勝たねばならぬ。だがその勝利の先に未来がなければ一体何の意味がある」

 氏康は窓の外の民の灯火をその親指で示す 。


「我らが守るべきは民の今日の命だけではない。その子や孫の代まで続く安寧そのものよ」

  彼の声には揺るぎない確信があった 。


「これは戦への備えではない。我らが子や孫の、未来への投資よ」 「これより北条家は『沈黙の図書館』の探索を、対帝国戦と並ぶ国家の最優先事項と定める!」

 その宣言に氏政は息を呑み言葉を失った 。


 これほどの大きな賭けに出るとは 。 だが幻庵は違った 。自らの進言と覚悟が受け入れられたことに静かに、しかし感無量の面持ちで深く頭を垂れた 。その皺深い顔には安堵と、これから始まる苛烈な旅への揺るぎない決意が浮かんでいた 。


 氏康はそんな二人の対照的な反応を確かめると、その絶望的な任務に赴く仲間たちの選定を始めた 。


  「幻庵、そなたの覚悟は受け取った。だがそなた一人を行かせるわけにはいかぬ。この旅には我が北条が誇る最高の『矛』と『盾』をつけよう」


「最強の矛。いかなる伝説の番人がいようと、その道をこじ開ける絶対的な武――北条綱成」


「最暗の盾。帝国領を抜け、図書館の罠を潜り抜けるための影の技――風魔小太郎」


 そのあまりに豪華で国の根幹を揺るがす人選 。 だがその選定が終わらぬうちに二つの影が静かに部屋の入り口に姿を現した 。リシアとドルグリムであった 。彼らはこの重要な話し合いがあることを幻庵から事前に知らされていたのだ 。


 リシアが一歩前に進み出る 。


  「氏康様。恐れながら申し上げます。幻庵様お一人では古代の魔法の理を解き明かすのは困難かと。森の民の知恵が必ずやお役に立ちます。わたくしも、お供させてはいただけませぬか」


「けっ! エルフの小娘にいい格好はさせられんわい!」

 今度はドルグリムがそのずんぐりとした体でリシアの前に割り込むように進み出た 。


「それに古い石の建物なんぞ我らドワーフの庭みてえなもんよ。罠の一つや二つ、このドルグリムが見抜いてやるわ! 幻庵殿の、そしてこの小娘の護衛も兼ねてな。わしを連れて行かんという選択肢はありえんぞ!」

 その種族を超えた仲間たちのあまりに力強い申し出 。


 氏康はその光景を満足げに見つめていた 。


「……そうか。ならばこの旅はもはや我らだけの戦ではないな」


  「よかろう。幻庵、綱成、小太郎、リシア殿、ドルグリム殿。そなたたち五名にこの国の、いや、この世界の未来を託す!」


「父上、ご乱心にございますか!」

  氏政が悲鳴に近い声を上げる 。


「国の根幹を成す方々を五名も同時にこの決戦前に引き抜けば、この国は内側から崩れますぞ!」


「だから、だ」

 氏康は有無を言わせぬ声で息子を制した 。


「この任務がそれほどまでに重要で、そして絶望的に困難であるからこそ、我が連合が持つ最高の札を切るのだ」


「残る者たちでこの国を断固として守り抜け、氏政。そなたの働きにこの国の、そしてこの世界の未来が懸かっておる。……わしは、そなたを信じておるぞ」

 その父として、王としての絶対的な信頼の言葉 。


  氏政はもはや何も言うことはできなかった 。ただそのあまりにも重い責務に唇を噛み締め、深く頭を垂れるしかなかった 。


 その日北条家は二つの絶望的な戦線に同時に挑むことを決意した 。

 一つは三十万の軍勢を迎え撃つ国の存亡を賭けた防衛戦 。 そしてもう一つはこの世界の残酷な真実そのものに挑む、種族を超えた五人の仲間たちの未来を賭けた冒険 。 世界の歯車が大きく、後戻りのできぬ方向へと確かに回り始めた夜であった 。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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