第六十三話:頑固者の親征
地の底の王国カラク・ホルンは奇妙な熱を帯びていた。二十日間に及んだ鍛冶ギルドの沈黙は国王ブロック・アイアンフィストの『技術者交換協定』承認で一応の終結を見た。
工房の炉は再び火を噴き、止まっていた槌音が以前と変わらぬ力強さで地下空洞に響き渡る。 一度入った亀裂は容易に癒えぬ。伝統を重んじる年配の職人と変化を求める若き革新派の間には、未だ冷たく硬いしこりが残る。
その日、王城の玉座の間はそのしこりを象徴するかのように重い沈黙に支配されていた。 玉座に座すブロック王の前で、小田原への特使であった若き革新派リーダー、グレンが旅の報告を終えた。彼の言葉はまだ評定の間に残響しているかのようだった。
『――以上がかの地で行われた〈対魔法障壁発生装置〉演習の一部始終にございます』
グレンの報告は衝撃的であった。三百のエルフが放つ山肌をえぐり取る魔法の奔流。
それをただの光の波紋へと変えた人間とドワーフ、エルフの知恵が融合した未知の装置。 伝統派の長老たちは苦々しげな顔でその報告を聞いていた。
『……人間のまやかしであろう。そのような都合の良い絡繰りが、あるものか』
『いかにも。我らが五千年の技こそ大陸最強。異国の見慣れぬ手品に心を奪われるなど若さゆえの過ちよ』
彼らがいつものように変化を否定する言葉を並べ始めた時だった。 玉座の間の重い扉が慌ただしく開かれ、王直属の伝令兵が血相を変えて駆け込んできた。
その手には外界の商人ギルドからもたらされた緊急の報せが握られている。
『も、申し上げます! 大陸中央アークライト神聖帝国にて、三十万規模の大十字軍結成の動きありとの確たる報せが!』
その言葉に評定の間が水を打ったように静まり返る。
『帝国は東の人間国家〈オダワラ〉を〈神の秩序を乱す異端〉と断定! その殲滅を目的とし進軍を開始する決意とのことにございます!』
かつて板部岡江雪斎が警告した世界の大きなうねりが、ついに現実の脅威となりこの地の底の王国にまで届いた瞬間であった。長老たちが狼狽の声を上げる。
『三十万だと!? 正気か!』
『我らには関係のないことだ! 直ちに大門を封鎖し山の内に籠もるべきだ! 地上の者どもの争いなど我らが知ったことではない!』
『しかしもし〈オダワラ〉とやらが敗れれば次に帝国の牙が向くのは我らではないのか!?』
伝統か革新か。開国か鎖国か。二つの巨大な現実を前にドワーフの国是はその根底から揺さぶられていた。
その混沌の中心で、これまで沈黙を守っていたブロック王がゆっくりと巨体を玉座から起こした。ゴゴゴ、と、まるで岩山そのものが動き出したかのような威圧感。黒曜石の瞳が初めて評定の間にいる全ての者――伝統派の長老たちも革新派の若者たちも等しく見据えた。
「……静まれ」
低い地鳴りのような一言で全ての雑音が嘘のように消えた。
王はグレンの前に立つ。静かに言った。
「グレンよ。そなたが見たという、その『障壁』。まことか」
「はっ。この目にしかと焼き付けてまいりました」
「そうか……」
王は次に、伝令兵がもたらした報告書を手に取った。羊皮紙に記された文字を、重々しく目で追う。
「そして、三十万の軍勢……。紅雪斎とか申した人間の僧侶の言葉もまた、まことであったか……」
ブロック王は玉座に戻らない。
評定の間の中央にただ静かに佇んでいた。その背中はあまりに大きく、あまりに孤独に見えた。五千年の伝統と王国の未来。その全てを今この頑固な王がただ一人で双肩に背負っていた。
長い沈黙の後。王は天を仰いだ。そして全てを振り切ったかのように深く長いため息をついた。五千年の誇りが折れた音ではなかった。民を想う一人の王が自らの誇りよりも民の未来を選んだ、偉大な「決断」の音であった。
「――評議会を招集せよ。全ギルドの長を集めろ。我が最後の決断を伝える」
◇
その日の午後。カラク・ホルンの全ての炉の火が一時的に落とされた。全ての職人たちが王城前の広場に集められていた。ざわめきと不安が、地下空洞を満たしていた。
やがて城壁の上にブロック王がその威容を現す。彼は眼下に広がる数万の民の顔を一人ひとり目に焼き付けるように見つめた。そしてその地鳴りのような声を王国中に響き渡らせた。
「我が民よ! 聞け!」
「我らは五千年の長きにわたりこの山に抱かれ鉄と誇りと共に生きてきた! だが今我らの知らぬところで世界は大きく変わろうとしている!」
「東には我らの知恵を求め、我らに新たな知恵をもたらす人間たちがいる! そして西にはその全てを力で飲み込もうとする巨大な帝国がいる!」
王はそこで一度言葉を切った。深呼吸し、覚悟を固める。そして全てのドワーフの魂に直接語りかけるように続けた。
「わしは決めた。人間の真価は酒や言葉ではなく戦場で隣に立った時にこそわかる」
「これより我、国王ブロック・アイアンフィストは我が国最強の『鉄壁兵団』を率い、東の人間国家『オダワラ』へと向かう! 『親征』である!」
そのあまりに衝撃的な宣言に広場は驚愕のどよめきに包まれた。王自らが、異国の地へ、人間と共に戦うために? 五千年の歴史で初めてのことだった。
「我らはもはやただの穴熊ではない! 帝国が我らをそう思うておるのならその考えがいかに愚かな間違いであったか思い知らせてくれるわ!」
「我らはこの山の誇りを世界の中心でもう一度証明するのだ!」
その力強い宣言に伝統派も革新派も、もはや何の垣根もなかった。 全てのドワーフが一つの魂となり手にした槌を、盾を天に突き上げ、王の名を国が揺れるほどに叫び続けた。地底の王国が、一つの意志となって震えた瞬間であった。
◇
出陣の日。 整然と整列する鉄壁兵団。磨き上げられた鋼鉄の鎧が、地下の灯りを鈍く反射している。その先頭に立つブロック王の前に一人の若き職人が呼び出された。グレンであった。誰もが王が最後に若きリーダーに労いの言葉でもかけるのだろうと思っていた。 だが王の口から出た言葉は再び全てのドワーフを驚愕させた。
「――グレンよ。そなたを此度の親征における我が『副官』に任命する」
「なっ……! 王よ、しかしわたくしのような若輩者が……!」
狼狽するグレンに王は初めて父親のような穏やかな笑みを向けた。
「新しい戦には新しい目が必要じゃろう。そなたのその目で彼の地の全てを見届け、そしてこの老いぼれの目となり耳となるのだ。……頼んだぞ」
王はグレンの肩をその岩のような手で力強く叩いた。頑固な王が初めて次の世代にこの国の未来を託した歴史的な瞬間であった。
ゴゴゴゴゴ……という地響きと共にカラク・ホルンの大門が数十年ぶりに外界へと完全に開かれる。その先に見える眩いばかりの光の中へ。
老いたる王と若き革新派が肩を並べて進んでいく。ドワーフの五千年の長きにわたる孤立が終わり、彼らが世界の歴史の表舞台へとその重い一歩を踏み出した記念すべき瞬間であった 。
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