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第六十二話:老獪なる森の決断

 生命樹の都「イグドラシオン」。 数千年の時が止まったかのような、永遠の黄昏に満ちた場所であった。


 雲を貫く巨大な生命樹の枝々には白い輝きを放つ優美な建造物が樹の一部であるかのように築かれている。


 枝の途中から流れ落ちる滝が陽光を受け虹色の飛沫をきらめかせ、全てが一つの完璧な芸術品のように調和していた。


 だが、その完璧さこそが、この都が抱える病の証左でもあった。完璧とは変化の終わり。成長の停止。美しさは命の躍動ではなく、琥珀の中に封じ込められた化石の美しさに近かった。


 若者たちの集団出奔という前代未聞の事件は、静謐な水面に投じられた大きな石となり都の空気には冷たい澱みを生んでいた。


『森の守り手』たちの巡回は以前にも増して頻繁になり、枝々の間で交わされる囁き声には未来への不安が色濃く混じっていた。


 その日、長老会が統べる純白の広間に一人の招かれざる客人が通された。旅の吟遊詩人を装う帝国の密使ラメント。彼は敵意も威圧感も優雅な佇まいの奥に完璧に隠し、敬意に満ちた穏やかな笑みを浮かべていたた。


「――して、人間よ。何の用かな」

  玉座に座す長老会議長ロエリアン・シルヴァリウスが冷たく問いかける。白銀の眉は不快そうに寄せられていた。


「森は人の子の来訪を歓迎しない。それは先日、東の者どもにも伝えたはずだが」

 広間に控える他の長老の一人が侮蔑を隠さぬ声で付け加える。


「人間よ、その甘い言葉、我らが信じるとでも思うか? 帝国もまた人の国。その本質が東の蛮族どもとどれほど違うというのだ」

 ラメントはその敵意さえも柳に風と受け流し、深々と、しかし堂々と一礼した。


「偉大なる森の賢者よ。わたくしは戦いを告げに来たのではございません。むしろ戦いを『終わらせる』ためのよき報せを携えて参りました」

 ラメントはまず長老たちの心を巧みに解きほぐしていく。


 森の不変の美しさを詩人の言葉で称え、それを守ろうとする長老たちの気高い精神を賛美した。


「貴方がたが守り続けてこられたこの神聖なる秩序と伝統。それこそがこの混沌とした世界に残された最後の光にございます。……ですが、その光を土足で踏み荒らそうとする者どもがいる」

 彼の声がわずかに悲しみの色を帯びる。


「東の『オダワラ』と名乗る者たち。彼らは森を切り拓いて異質な稲穂を植え付け、ドワーフの炉から黒煙を上げさせ、オークの蛮声を城下に響かせる。あれは調和ではなく雑音。生命を蝕む不協和音にございますす。彼らがもたらすは秩序ではなく混沌。あれは健全なる世界を蝕む『変化という名の病』に他なりませぬ」

 その言葉はロエリアンの心の最も深い場所にある偏見と現状への苛立ちを的確に言い当てていた。彼の口元に初めてかすかな同意の笑みが浮かぶ。


「わたくしが仕えるアークライト神聖帝国はその病を憂いております」

  ラメントは好機と見て本題を切り出した。


「帝国が目指すは支配ではございません。神が定めた揺るぎない秩序の回復。我らが振るう力は混沌を鎮めるための『秩序という名の薬』なのでございます」

 彼は懐から古びた羊皮紙の巻物を取り出した。


「我が主、枢機卿ロデリク様からの、お約束の品にございます。一つ、帝国はシルヴァナール連邦の神聖なる不可侵を未来永劫お約束いたします。我らが聖戦の炎がこの森を焼くことは決してございませぬ」

 そして彼は最後の、最も甘美な毒を長老たちの耳へと注ぎ込んだ。


「そしてもう一つ。これはかつて貴方がたの祖先が編み出し、しかし度重なる大災害の中で失われたという『失われた古代魔法の知識』。その一部が幸いにも帝国の古文書庫に眠っておりました。友好の証としてこれを森へとお還ししたい」

  ラメントはそう言うと白絹に包まれた小さな宝珠を取り出した。


 生命樹の若木から作られたという『守護の宝珠』。今は力を失っているが巻物に記された古の儀式を行えば都の結界をかつてないほど強固なものにするというう。


 その言葉にロエリアンの目が、周りに控える長老たちの目がギラリと抑えきれぬ欲望の光を宿した。失われた古代の栄光。それを取り戻すことは彼らの数千年来の悲願であった。


 ロエリアンの心は決まっていた。若者たちの出奔は人間たちがもたらした病の最初の兆候に過ぎぬ。すこの病を放置すればいずれ森全体が腐り落ちる。


 ならば多少の苦みを伴おうとも帝国という薬を飲むしかない。それこそが数千年この森を守ってきた長老としての最後の責務なのだと。


「……よかろう。その話、乗った」

  ロエリアンは威厳を保ちながらも、声に隠しきれない興奮を滲ませて言った。


「帝国が真に秩序を重んじるというのなら我ら森の民もその助力を惜しまぬと、枢機卿殿にお伝えせよ」


 ◇


 その夜。生命樹の最も高く神聖とされる枝の上。月明かりだけが照らす秘密の祭壇でロエリアンとラメントは古の魔法による密約を交わしていた。


 帝国の紋章が刻まれた盟約書にロエリアンが自らの血で署名をする。血が古エルフ語のルーン文字と共鳴し淡い、しかし不可逆の光を放った。それは森の未来を帝国という巨大な影に売り渡す決定的な瞬間であった。


 ロエリアンもラメントも、その場にいた全ての長老たちも気づいてはいなかった。彼らがいる遥か頭上、生命樹のさらに高い枝の闇の中。一枚の葉と完全に同化していた一人の影の存在に。


(……気配を殺せ。息を殺せ。エルフの五感は獣のそれを超える。ましてこれほどの魔力が満ちる聖域。下手に動けば木の葉一枚の揺らぎさえ奴らに悟られる……)


 風魔の斥候は極限の集中力で自らの存在そのものを森の一部へと変えていた。交わされた言葉の意味までは分からない。だが彼はその目で確かに見た。


 エルフの長老が帝国の使者と何らかの誓いを立て、帝国の紋章が刻まれた巻物に血で署名をした、その一部始終を。それは一つの「裏切り」が成立した動かぬ証拠であった。


 斥候は音もなく葉の影から身を離すと闇から闇へと溶けるようにその場を離脱した。彼の使命はただ一つ。


 この森の最も深い場所で交わされた老獪なる決断の全てを一刻も早く小田原の主君の元へと届けることであった。この情報がやがて来るべき戦の雌雄を決する切り札となることをまだ誰も知らなかった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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