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幕間十:棘の報告と黒の勅令

 

 風が枯れ葉を攫っていく。 帝国の辺境、打ち捨てられた古い礼拝堂。砕け散ったステンドグラスの破片が床に散らばり、神の姿を象った壁画は長い歳月のうちに顔さえも判別できぬほど剥落していた。


 その神に見捨てられた廃墟に、一人の男が静かに膝をついていた。 優雅な吟遊詩人、ラメント。 だが背にはもはや愛用のリュートはなく、穏やかであったはずの顔には任務に失敗した者の深い疲労と屈辱の色が浮かんでいた。


 彼の前にはもう一つの影が音もなく佇んでいる。 それは枢機卿ロデリクではない。漆黒の、しかしどこか女性的な曲線を持つプレートメイルに身を包み、腰には黒い薔薇の紋章が刻まれた細身の長剣を下げた一人の騎士。仮面の下の素顔は窺い知れない。


 その佇まいからはラメントが使うような「心」を操る術ではなく、ただ純粋な死の匂いだけが漂っていた。 黒薔薇騎士団第三隊隊長。通称、「夜告鳥」。


「――以上が顛末にございます」

 ラメントは旧レミントン領での偽りの蜂起が、サー・ゲオルグのあまりに常軌を逸した「パンと赦し」によって完全に無力化されたことを淡々と報告した。

 声には感情がなかったが、握りしめられた拳が微かに震えていた。


「あの騎士はもはや帝国の栄光を夢見る狗ではありませぬ。民の心という厄介な力を得た危険な『王』へと変貌いたしました。わたくしの歌は……彼の、そしてあの異世界の王がもたらした『思想』の前には届きませなんだ」

 夜告鳥は何も答えなかった。

 ただ、その仮面がカタと微かに音を立ててラメントを見下ろしただけ。

 その無言の視線が何よりも雄弁に彼の失敗を詰っていた。冷たい鉄の仮面の下で、侮蔑の念が渦巻いているかのようだった。


 やがて夜告鳥は懐から枢機卿ロデリクの印が押された黒い蝋で封じられた書状を取り出した。


「枢機卿閣下はお見通しでした。貴方のような『言葉』の棘が折れる可能性も」

 声は鈴の音のように澄んでいるが、その奥には一切の感情が感じられない。まるで磨かれた氷のようだ。


「閣下は仰せです。『毒が効かぬ獣には、ただ狩人の刃を以てその心臓を貫くのみ』と」

 夜告鳥は書状をラメントの前に置くと新たな命令を告げた。声は冬の夜気よりも冷たく、硬質であった。


「貴方には新たな任務を与えます。再びあの『オダワラ』とやらに潜入しなさい。目的はもはや人心の攪乱ではありませぬ」


「――暗殺、です」

 ラメントが息を呑む。喉がひりつくような感覚。


「……目標は? あの異世界の王、ホウジョウ・ウジヤス、ですかな」


「いいえ」と夜告鳥は静かに首を横に振った。


「王の首を獲るのは現実的ではない。あの城には我らと同じ、あるいはそれ以上の『影』が幾重にも巣を張っている。それに王一人の首を獲ったところで、あの国は揺るがない。あの国の強さは個ではなく『組織』そのものにある故に」


 夜告鳥はラメントの前にもう一枚、風魔の斥候が描いたものとは比較にならぬほど精密に描き込まれた小田原城下の地図を広げた。


 そしてその仮面の下の指先が地図の一点――城の中心ではなく西の開拓農地に隣接する、ささやかな屋敷をとんと指し示した。


「我らが真に断つべきはあの国の『武』でも『知』でもない。あの国が掲げる偽りの理想……『禄寿応穏』という甘美な幻想の、その『心臓』」


「目標は北条氏政が妻、黄梅院。民が『豊穣の女神』と崇めるあの女です」


 意外な目標にラメントの背筋を冷たいものが走った。


「……な。正気ですか。ただの、女を……」


「ただの女ではありませぬ」

 夜告鳥の声が絶対的な、狂信的な響きを帯びる。


「あの女こそが異端の教えの生ける象徴。あの女の存在が民に『神に祈らずとも人は救われる』という最も危険な幻想を与えているのです。あの女を我らの手で断罪し、その亡骸を民の前に晒す。さすれば民は知るでしょう。北条の神は自らの聖女一人さえも守れぬ無力な偶像であったと」


「恐怖は愛よりも強く人の心を縛ります。……それこそが我ら黒薔薇騎士団の、そして枢機卿閣下が信じる唯一の『福音』なのですから」


 夜告鳥はラメントに吟遊詩人のリュートではなく、一振りの闇に溶け込むような黒い短剣と、いくつかの特殊な毒薬が入った小瓶を手渡した。冷たい金属の感触がラメントの手のひらに伝わる。


「……これが貴方の新しい楽器です。存分に死の歌を奏でてきなさい」


 ラメントはもはや何も答えなかった。 ただその短剣を震える手で受け取ると深く一礼した。 彼の優しげであったはずの瞳から光が消え、ただ任務を遂行するためだけの冷たい影が宿っていた。失敗は許されない。次は、この刃で結果を示すしかない。


 二つの影は再び音もなく、それぞれの闇へと消えていく。風が廃墟の礼拝堂を吹き抜け、剥落した壁画の最後の欠片を虚しく舞い上げた。


 北条家が築き上げた光の世界。その最も柔く、最も尊い心臓部に、帝国の最も冷徹で、最も鋭利な刃が今、確かに向けられようとしていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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